鈴々舎馬風
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鈴々舎 馬風(れいれいしゃ ばふう)は、江戸落語の名跡。当代は5代目。
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[編集] 4代目
4代目鈴々舎 馬風(1904年 - 1963年12月15日)は、東京府(現:東京都)出身の落語家。本名は色川 清太郎(いろかわ せいたろう)。
いかつい風貌から「鬼の馬風」とあだ名されていた。元祖毒舌芸人として知られていて新聞記事から拾ってきた出来事をベースとした新作落語、いわゆる『時事落語』で一世を風靡している。
「エーッ、よく来たなァ」という前口上は多くの落語家に物真似され、とりわけ次代は当代と生き写しと評されるほどだという。 また、「友よ、サラバ。」というフレーズをよく使っていたが戦前は女学生が使って問題となるという逸話がある。
晩年中風を患い高座に上がる事もままならなくなっていたが「ヨイヨイ物語」という題で落語にするほど生への執着を見せていた。しかし、それもかなわず59歳で早世。ちなみに死去した日は力道山の没日と重なっていてスポーツ紙の一面はみな力道山の死で埋め尽くされていて当代は一段のベタ記事であった。しかしそれを枕とした落語家はいなかったという。
正当・馬風は当代で途絶える。
[編集] 5代目
5代目鈴々舎 馬風(1939年12月19日 - )は、千葉県野田市出身の落語家。5代目柳家小さん門下。落語協会に所属。出囃子は『本調子のっと』。本名は、寺田 輝雄(てらだ てるお)。
異様に元気な、はきはきした喋りが特徴。セックス関係のブラックジョークを好む。豪放磊落な芸風、物真似上手な所など、師弟関係は無いが「よく来たなァ」の4代目馬風を彷彿させる。
柳家かゑる時代、日本テレビ『笑点』の大喜利のレギュラーを一時期(1969年4月~11月)務めていた。(当時の司会は兄弟子の立川談志、同じく回答者として弟弟子の柳家さん吉とともに出演していた。)
キックボクシングのリングアナウンサーも暫く行っていた。
馬風襲名後もテレビ東京の『爆笑!おもしろ寄席』の企画「ハリセン大喜利」で、ハリセン大魔王として活躍。悪い答えを出す回答者を悉くハリセンで殴りまくり、司会者のみのもんたにまでとちると容赦なく叩きつけた。
激動の昭和が終わり平成になろうとする時も、日本テレビ『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』のドッキリ企画である「人間性テスト」で、上島竜兵とパンツ一枚となってロウソクを垂らしあうという荒業を見せるなど走りは止めていない。
また同じく日本テレビの特別番組『とんねるずの仁義なき花の芸能界全部乗っ取らせていただきます』や花王名人劇場『とんねるずの人生歌の通り生きてみました』では石橋貴明との遺恨が勃発し(もちろん演出)、銭湯で石橋の襲撃を受けた馬風は逃げる石橋を裸で追った(この他にも、ドッキリ企画で相模湖に落とされた事がある)。「いーしーばーしー!!」と叫びながら追う姿は伝説となっている。
2006年6月の理事会で落語協会会長に就任することが決まった。ちなみに笑点メンバー経験者としては前任の三遊亭圓歌についで2人目。トップはほかに桂歌丸(落語芸術協会)がいる。
[編集] 来歴
- 1956年12月 - 5代目柳家小さんに入門。前座名は、柳家小光。
- 1960年3月 - 二つ目に昇進。柳家かゑるに改名。
- 1973年 - 真打に昇進。
- 1976年 - 5代目鈴々舎馬風を襲名。
- 1979年 - 落語協会理事に就任。
- 2001年 - 3代目古今亭志ん朝の死去を受けて、落語協会副会長に就任。
- 2006年6月 - 3代目三遊亭圓歌の後を受けて落語協会会長に就任。
[編集] 得意ネタ
- 艶歌の花道
- 得意ギャグの美空ひばりのメドレーは有名。『東京キッド』、『哀愁波止場』、『悲しい酒』、『論語追分』、『港町十三番地』、『河の流れのように』、『車屋さん』、『人生一路』、『愛燦々』、『乱れ髪』、『お祭りマンボ』、『YAWARA』、『真っ赤に太陽』等、ひばりのヒット曲を20曲以上メドレーで延々と熱唱する。
- 会長への道
- 落語協会会長と言う頂点を目指す自身の立身出世伝であるが現実に会長となった現在、演じることはない。
- 峠の唄
- 上記『会長への道』をさらにブラックにした歌謡ネタ。落語協会幹部連中を滑稽に「今が峠」と歌い上げ、「いよいよ馬風の時代です~」と締めくくる。
[編集] 一門弟子
[編集] ファミリー
[編集] 著書
- 『会長への道』小学館。1996年12月発行。装画は山藤章二。ISBN 4093860122
[編集] CD
- 『峠の唄』テイチクエンタテインメント。シングル。1990年12月16日発売。
[編集] 外部リンク
- 鈴々舎馬風一門の長屋(公式)