賈ク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
賈詡(かく、147年 - 223年)は、中国、後漢末から三国時代にかけての政治家。董卓、李傕、段煨、張済、張繍、曹操、曹丕に仕えた重臣。字は文和。前漢の長沙王太傅賈誼の末裔、賈穆・賈訪の父、賈模の祖父、賈胤・賈龕の高祖父。
武威郡、姑臧県の人。若い頃から智謀に長けていたが、評価されることはなかった。ただ漢陽の閻忠だけは彼を高く評価していた。このため病気を理由に郎(官位の一つ)を辞職し、帰郷しようとしたが、その旅の最中に漢の支配に反抗した異民族に遭遇し、捕虜になってしまう。このとき賈詡は、当時異民族にも威名が知られていた太尉の段ケイの親族と偽り、「私を殺した後、手厚く葬ってくれれば、太尉殿がお前たちに褒美をとらせるであろう。」と、遠まわしな脅迫めいた嘘をついた。異民族側はそれを聞いて驚き、慌てて賈詡を解放したという。こうして賈詡は命を永らえたのである。
その後は董卓の校尉となり、董卓が呂布、王允らに殺されると、李傕らに策を授けて長安を攻めさせて呂布を追い出し、王允を殺して長安を奪回させた。このとき、李傕らは賈詡の智謀に敬意を抱き、侯の地位を与えて報いようとしたが、賈詡はそれを辞退したという。ちなみに、廃帝弁の妃を李傕が妾にしていたので献帝に彼女に位を与え助けるよう進言している。このことから李傕に心から仕えていたとはいえないともとれる。その後、賈詡は李傕らの参謀として活躍したが、献帝が長安から脱出すると李傕のもとから離れて張済に仕えた。張済が劉表との戦いで戦死した後は、その甥である張繍に仕えた。そして張繍が曹操と戦ったときは、張繍に夜襲策を献策して曹操軍を大いに打ち破っている(余談になるが、この際曹操の長子曹昂と曹操直下の猛将典韋が戦死している)。
後に張繍が曹操に降ると、曹操の参謀となった。そして多くの献策をしたが、晩年の曹操に衰えを感じるようになると、自身が降将であり、なおかつ智謀に長けていることに疑惑を持たれてはたまらないと思ったのか、自分の息子たちの縁談相手に高貴な家を選択しないなどの巧みな処世術を見せている。賈詡は曹操をかつて夜襲で追いつめたこともあったから、それを根にもたれることを恐れていたのかもしれない。
曹操が馬超と韓遂の連合軍と潼関で戦ったとき(潼関の戦い)には、離間の策を用いて馬超と韓遂を不和にさせ、彼らを敗北させるに至った。これにより、馬超は羌族の地に逃れることとなった。
数ある賈詡の機知の中でも、特に人の心の機微を絶妙に捉えたことを示すエピソードに、曹操の後継者決定に際しての助言がある。無条件で優先される長子曹昂、曹操自身後継者と目していた曹冲が、いずれも早くに世を去っていたため、晩年になって、嫡子を担ぐ曹丕派と、文人や書生たちから強い支持のある曹植派とに家臣団が割れそうになっていた。どうしたものかと曹操に問われた賈詡は、即答はせず、ただ「袁紹・劉表のことを考えておりました。」とだけ答えた。これは、強大な勢力を誇りながら、嫡子を無視して庶子を後継者にしようとし、ついに家督争いによって国を分裂・混乱させ、その結果、袁・劉の二家は外敵(曹操)に滅ぼされたことを暗に示唆したのである。このことで目が覚めた曹操は、曹丕を正式に後継者と定めている。
話は前後するが、赤壁戦に臨んでは、何よりも、まず奪ったばかりの荊州の足場を固めて、呉に手も足も出ない万全の体制を築いてから降伏を勧める戦略を唱えたり、曹丕の呉侵攻作戦に関してもシビアなくらい冷静で的確な助言をしている。これらは、いずれも採用されなかったが、案の定賈詡の言う通り失敗に終わった。
223年、77歳の長命で病死した。
[編集] 評価
『三国志』に注を施した裴松之は、陳寿が賈詡に対して「前漢の軍師陳平に次ぐ」と高く評価しているのに対してなぜか極めて厳しい評価を加えている。董卓の死後に郭汜たちが逃亡しようとしたのを止めたことについて「悪の権化董卓が獄門台に曝され、ようやく世界が平和になろうとしていたのに、災いの糸口を重ねて結び直し、人民に周末期と同じ苦難を強いたのは、全て賈詡の片言に拠るものではないか」、賈詡伝が荀彧伝と同じ巻に入れられていることに対して「この程度の人物を荀彧と並べて列伝を著すのは、故人への冒涜である。もっとふさわしい人物、たとえば程昱らと同じ伝に入れるべきであった」と言っている。
このような評価の背景には儒学的な思想も絡んでいると思われ、無名の叩き上げで現実主義の賈詡が在命中も同様な批判を受けていた可能性が示唆される。 文帝紀に、221年6月戊辰の日(29日)に日食があり、所轄の役人が太尉(=賈詡)を免職にする様上奏したという記述がある。これに対し文帝は二度と三公を弾劾しない様詔勅を出したが、この話も当時賈詡がその位に相応しい人物と見られていなかった証左なのであろうか。