献帝 (漢)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
献帝(けんてい、181年 - 234年 在位189年 - 220年)は中国後漢朝の第14代皇帝にして最後の皇帝。姓は劉、諱は協。字は伯和。霊帝の次子で、廃帝弁の弟。生没年が諸葛亮と同年である。諡は魏より孝献皇帝、蜀漢より孝愍皇帝。子に男子は劉熙、劉懿、劉邈、劉敦など。女子は少なくとも二名。
献帝の「献」という漢字は、三国志の影響でしばしば「他者に国を献上した」と解釈されるが、実際の諡法では「英邁である」という意味になり、あたらない。近い例を挙げれば、司馬懿の弟・安平王孚の謚は「献王」、晋の羊徴瑜(司馬師の夫人。羊祜の実姉)は贈号を「景献皇后」という。
[編集] 経歴
189年に霊帝が死ぬと、劉協は霊帝と何皇后との間に生まれた皇子弁と帝位を争う事になった。これは幼い本人同士の争いではなく、何皇后とその兄の大将軍何進の弁皇子側と王美人が死んだ後に協の養育をしていた董太后と宦官の協側の争いである。この争いは何進側が勝利し、劉協は陳留王となった。
その後、董卓が洛陽に乗り込んでくると強引に皇帝に擁立された。もちろん傀儡であり董卓が長安に遷都すると献帝も連れ去られる。董卓が呂布に殺されるとその勢力を継承した董卓の部下達の傀儡となる。傀儡に嫌気がさした献帝は長安から逃げ出すが、今度は曹操に会いまたしても傀儡にされる。
その後、曹操は献帝の権威、道理的正当性を背後に勢力を拡大し華北を統一した。この間、献帝は曹操を討つ密詔を母方の親族で舅でもある董承に渡すなど何度か曹操の“くびき”から逃れる事を画策したが全て失敗し、帝の側室であり董承の娘である董貴妃が妊娠していたために、曹操に彼女の助命を嘆願したが聞き届けられず、愛する董貴妃は縊り殺されたという。それらを重ねる度に帝の発言力が徐々に失われていった。
220年、魏王曹丕は献帝から禅譲を受け漢は滅亡した。献帝は山陽公となり、皇帝という身分は失っても、「朕」という皇帝だけが使える一人称を使う事を許されるなど様々な面で厚遇された。また、皇子で王に封じられていた者は、みな降格して列侯となった。また、蜀には劉協が殺されたと伝えられたため、劉備はこれを理由として皇帝を称し、漢の後継者を自称した上で、独自に孝愍皇帝の諡を送った。
曹丕が献帝に禅譲を強要した際、皇后である曹節に「この不忠者!」と罵倒されていることから、曹操に皇后を押しつけられたとはいえ、曹節は礼を重んじていたといえよう。
その後の劉協は一人静かに暮らし、234年、五丈原で諸葛亮が死んだ年に54歳(数え年)で死去した。魏は孝献皇帝(献帝)と諡した。
劉協の子は既に死去していたので、孫の劉康が山陽公を継ぎ、魏に取って代わった西晋でもそのまま山陽公にとどまった。285年死去し、子の劉瑾が跡を継いだ。劉瑾は289年死去し、子の劉秋が跡を継いだ。永嘉の乱のさなかの309年、劉秋は匈奴(漢)の汲桑軍に殺され、爵位は断絶。漢王朝の嫡流は絶えた。