張繍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
張繍(ちょうしゅう、生年不詳-207年)は、後漢末期の武将。後漢の驃馬将軍の張済の族子(おい)。子は長楽衛尉・張泉ら数人。
[編集] 略要
[編集] 生涯
武威郡祖厲県(現/甘粛省武威市靖遠県)の人。若い頃は県長の劉雋の下で県吏として仕えた。しばらくして、韓遂・辺章らに呼応した麹勝が謀反を起こして劉雋を殺害した。だが主君思いの若き張繍は一隊を率いて、麹勝を誅殺して主君の仇を討ちその武名を挙げる。 引き続き今度は、韓遂・辺章らの涼州の軍隊を撃退したために、董卓に認められて、董卓に仕えた。董卓の死後は、族父の張済に従う。
197年、族父の張済は南陽郡の穣を攻略中に、流れ矢に当たって戦死したため、張繍がその後を継ぐこととなる。劉表と手を結んで曹操に対抗したが、曹操軍に攻め込まれて降伏を余儀なくされた。ところが、曹操が絶世の美女と知られていた張済の後妻である未亡人の鄒氏と密会していることを知り、曹操に対して激しい怒りを感じた。そこで、参謀の賈詡の進言を容れて、宛城にいた曹操に夜襲をかける。この夜襲で、張繍は、曹操の長男の曹昂や甥の曹安民(兄の子)、当時の曹操の親衛隊長であった典韋などを含む多くの将兵を討ち取るという勝利をあげた。
その後も曹操と抗争を続けたが、やがて賈詡の進言に従って曹操に帰順する。帰順後、張繍の娘は曹操の少子(年少の息子)である曹均(樊安侯)の妻として迎えられている。200年、官渡の戦いで武功を挙げ、破羌将軍に昇進すると共に、2000戸の所領を与えられた。207年、柳城の鳥丸征伐中に陣中で病死した。定侯と諡号を送られた。
一説では、自分がかつて殺した曹昂の異母弟である曹丕に「当時、父に従軍した私はまだ11歳だった。張繍は私の兄を殺した憎い仇敵だ。」と言われてしまい、これを苦にして自殺したとも言われているが真偽の程は不明でまだ定説に至っていない。
長男の張泉は後漢の長楽衛尉だったが、219年に親交があった魏諷と共に魏の転覆を目指すクーデターを謀って失敗し、曹丕によってその息子(張繍の孫)と共に処刑されてしまった。これにより、張繍の血筋は途絶えた。