花森安治
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花森 安治(はなもり やすじ、1911年10月25日 - 1978年1月14日)は、編集者、グラフィックデザイナー。生活雑誌『暮しの手帖』を創刊した。
[編集] 経歴
神戸市出身。神戸市立雲中小学校の同級に田宮虎彦がいた。旧制兵庫県立神戸第三中学校から旧制松江高等学校に進む。旧制高校時代、交友会雑誌の編集に参加したことが編集者としての出発点になったと語る。
東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学し、ここでも学生新聞の編集に携わった。編集部員に扇谷正造や岡倉古志郎、杉浦明平などがいた。
卒業後は伊東胡蝶園(現在のパピリオ)宣伝部に入り、広告デザインに携わる。1930年代末期から手がけた化粧品広告には、既に手書き文字で顧客に語りかける個性的なスタイルを取り入れている。太平洋戦争に応召するも病気により除隊し、終戦まで大政翼賛会の外郭団体に籍を置いて国策広告に携わる。「欲しがりません勝つまでは」というキャッチコピーは花森が考案したものとしばしば言われるが、これは事実ではない。大政翼賛会と新聞3社による「国民決意標語」の募集に、東京在住の男性が小学生の娘の名前で応募した作品を花森が採用したものである。ただし、この点に関して戦後の花森は一切弁明をしなかった。
除隊されたとはいえ戦争の不条理と悲惨さの一端を経験した彼は、終戦後の1946年、画家大橋鎮子(のち暮しの手帖社社長)と共に衣装研究所(現・暮しの手帖社)を設立し、雑誌『スタイルブック』を創刊した。そして1948年には生活雑誌『美しい暮しの手帖』(後に『暮しの手帖』に改題)を創刊する。『暮しの手帖』は、生活者の側に立って提案や長期間・長時間の商品使用実験を行うユニークな雑誌で、中立性を守るため企業広告を一切載せないという理念の元に、現在まで発行されている。花森は編集長として自ら紙面デザインや取材に奔走し、死の前日まで第一線で編集に当たった。反骨精神と奇矯ながら真摯な行動でも知られ、数々の逸話を残す。おかっぱ頭やスカート姿を貫いたのもその一端である。