筑豊
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筑豊(ちくほう)は、福岡県の中央部をさす地域名。地名の由来は筑前国と豊前国の頭文字をとっただけであり、明治時代以降、石炭資源を背景にして新しく生まれた地域区分である。石炭により栄え、筑豊の中核都市に成長した都市を筑豊三都と呼ぶ。(飯塚市、直方市、田川市の3都市を指す)かつては筑豊炭田が栄え、多くの人で賑わっていたが、現在は全ての炭鉱が閉山し、人口が半分以上少なくなった自治体もあった。 北部九州地区には筑豊地域以外にも炭田地帯が広がっており、小規模炭鉱も含めると宗像市・北九州市、中間市、遠賀郡、糟屋郡、福岡市にも炭鉱が存在した。特に中間市は北九州都市圏に属するが、筑豊と同じ経済的・社会的特性を持ち、筑豊地域は独自の経済圏(飯塚都市圏)を形成している。
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[編集] 構成している自治体
[編集] 中心都市
[編集] 歴史
江戸時代以前は嘉麻郡・穂波郡(嘉麻郡と穂波郡は現在の嘉穂郡に相当)と鞍手郡が筑前国に属し、田川郡が豊前国に属しており、経済的な独立性はなかった。しかし明治時代に入り、殖産興業政策が実施される中、地域内で産出される石炭資源が注目され、財閥・資本家による炭鉱開発が推進されたため、経済圏としての独立性を持つようになった。また、工業資源としての石炭の利用価値から、工業都市として発展した北九州地区と強い結びつきを持つことになる。
1960年代頃までは栄えたが、その後は国内の主要エネルギー資源が石炭から石油に移行したため(エネルギー革命)1976年に筑豊最後の炭鉱、貝島炭鉱(旧宮田町、現宮若市)が閉山し、人口・経済などの面で活力が低下していった。石炭産業の消滅後は北九州地区に近い地の利を活かし、炭鉱跡地に工業団地を造成し、製造業の進出を促して地域経済の維持を図っているが、依然として衰退に歯止めがかかっていない。また、域内での石炭産業に関連する数多くの社会問題が現在でも解決に至っておらず、地域イメージの悪化を惹き起こしている。ちなみに、北九州都市圏や福岡都市圏とのアクセスが良い飯塚市、直方市など、人口が増加している地域もある。
[編集] 過疎地域
筑豊炭田の衰退により、現在も過疎化が進んでいる地域が多数ある。
[編集] 筑豊地方内の地域について
筑豊地方内は、3地区に分けることが出来る。
[編集] 筑豊五地区
筑豊五地区とは、北九州市以外の福岡県北部を指す場合につかう。