矢川澄子
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矢川 澄子(やがわ すみこ 1930年7月27日 - 2002年5月29日)は東京府出身の作家、詩人、翻訳家。
教育学者矢川徳光の次女として東京目白に生まれ、世田谷に育つ。東京都豊島区立旧高田第五小学校(現在の目白小学校)から旧制の東京都立高等女学校を5年で卒業後、旧制の東京女子大学英文学科(3年制)を1951年に卒業。岩波書店の社外校正者を経て新制学習院大学英文学科3年次に編入学し、1954年、同人誌「未定」に参加。のち独文科に転じて関泰祐教授に師事。1955年、学習院大学独文学科卒業。さらに東京大学文学部美学美術史学科に学士入学したが1958年に中退。
1959年1月、岩波書店時代に知り合った澁澤龍彦と結婚。鎌倉市小町に住む。
1966年8月、新居落成に伴って澁澤と共に鎌倉市山ノ内へ転居。同年、矢川の下訳に基づく澁澤訳「O嬢の物語」(ポーリーヌ・レアージュ)が刊行される。この年、グスタフ・ルネ・ホッケの『迷宮としての世界』を種村季弘との共訳で美術出版社から上梓。
1968年4月、澁澤と協議離婚。離婚の原因については、俳人加藤郁乎と矢川との不倫が関わっていたとも言われている(加藤郁乎『後方見聞録』)。このほか、澁澤は娼婦との妻妾同衾を矢川に要求したことがあると自ら認めている(丸山明宏との対談における澁澤の発言)。離婚前、谷川雁と再婚する話が進んでいたが、澁澤との離婚の意志につき谷川から誤解を受けたことが原因で、谷川との関係が破局を迎えた。離婚後は澁澤から、かつて二人で撮影したツーショットをことごとく鋏で真っ二つに切断されて送りつけられるという嫌がらせを受けた。
東京都世田谷区赤堤に転居した後も澁澤との復縁を望み、当時東京都立大学に勤務していた種村季弘の研究室を毎日のように訪れて相談したが[1] 、復縁は結局叶わなかった。1969年、文筆生活に入る。以後、英仏独の翻訳家としても活躍。
1980年、谷川の招きで信州黒姫(長野県上水内郡信濃町)に移住。
1989年から日本ファンタジーノベル大賞の選考委員を務める。
姉はチェロ奏者井上頼豊と結婚。甥の井上鑑、義姪のやまがたすみこは共にミュージシャン。
ミュージシャン知久寿焼(元たま)とも交流があったことが知られ、1999年刊行の絵本「だるまさん千字文」では知久が挿絵を担当した。2001年発売のアルバム「しょぼたま」は矢川自宅にて収録されたものである。