谷川雁
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谷川雁(たにがわがん、本名:谷川巌(タニガワイワオ)、1923年12月16日 - 1995年2月2日)は詩人、評論家、サークル活動家。 熊本県水俣市に六人兄妹の次男として生まれる。兄は、民俗学者の谷川健一。
1945年、東京大学文学部社会学科卒。戦後、西日本新聞社に勤務。「九州詩人」「母音」に詩を発表し、安西均、那珂太郎などと交遊。
1947年、日本共産党に入党すると大西巨人、井上光晴らと活動し、新聞社を解雇される。
1954年、第一詩集「大地の商人」を刊行。
1956年第二詩集「天山」、1960年「定本谷川雁詩集」を刊行、その“あとがき”で「私の中の『瞬間の王』は死んだ」として、以後詩作しないことを宣言する。
1958年、福岡県中間市に移住。上野英信、森崎和江、石牟礼道子らと雑誌「サークル村」を創刊し、炭鉱労働者の間で活動する。
評論集「原点が存在する」「工作者宣言」などを発表。アジア的土俗的な地域性に根ざした特異なナショナリズム論と、「大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆である」という工作者の思想によって注目を受ける。
1960年、安保闘争を機に共産党を離党し、吉本隆明らと「六月行動委員会」を組織して全学連主流派の行動を支援する一方、地元の大正炭鉱を巡る争議では「大正行動隊」を組織して活動した。「多数決を否定する」「連帯を求めて孤立を恐れず」といった、個人の自立性、主体性を重視し既成組織による統制を乗り越えようとした組織原理と行動原理は、その後の全共闘運動にも大きな影響を与えている。
1961年、吉本隆明、村上一郎と思想・文学・運動の雑誌「試行」を創刊したが、8号を最後に脱退(「試行」はその後、吉本の単独編集となる)。評論集「戦闘への招待」を発表。
1963年、評論集「影の越境をめぐって」を刊行。大正鉱業退職者同盟を組織して退職金闘争を展開。
1965年、闘争の終息とともに執筆を含めた一切の活動を停止、上京すると語学教育を展開する「ラボ教育センター」を設立した。組合との対立では、かつての左翼運動家谷川雁の「変節」が話題を呼んだ。
1981年から「十代の会」を主宰し、宮沢賢治を中心に児童文化活動に取り組むなどの活動を再開した。
1991年、作曲家新実徳英と共作で合唱曲「白いうた 青いうた」の制作を開始。全100曲を目指したが、雁の死により53曲で中断。
1995年2月2日、肺がんにより死去。享年72。
作家のC・W・ニコルの親友で、ニコル氏を永住の地である黒姫に導いたのは彼自身であった。