相沢英之
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相沢英之(あいざわ ひでゆき、1919年7月4日 -)は昭和、平成期の大蔵官僚、政治家。衆議院議員(9期)。弁護士
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[編集] 経歴
相沢家は鎌倉時代以来の旧家でありそのルーツは横浜であるが、教員だった父親の赴任地である大分県宇佐市で生まれた。 旧制横浜第一中学校(現・神奈川県立希望ヶ丘高等学校、第一高等学校(現・東京大学)を経て、1942年9月に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し大蔵省入省。主税局勤務となるが陸軍に召集され、陸軍主計少尉となる。戦後、ソ連に抑留される。1949年に大蔵省に復帰、主に主計局畑を歩む。以後、理財局長、主計局長を歴任し、1973年には大蔵事務次官となる。田中角栄に目をかけられ、田中内閣時代に超大型予算を組むが、狂乱物価の一因になったとされる。1974年6月に退官。
経済企画庁官房長だった1969年、女優の司葉子と結婚し話題となった。
- 尚、相沢は前妻とは病気で死別、長男・次男をつれての再婚(司は初婚)であった。
1976年の第34回衆議院議員総選挙に、妻の出身地である旧鳥取全県区から自由民主党公認で立候補し初当選。以後9回連続当選を果たす。官僚時代の田中との関係から当選後は木曜クラブに所属すると思われていたが、金脈問題やロッキード事件で田中派入りを見合わせ、田中の盟友である大平正芳率いる宏池会入り。田中は、相沢の人物の浅はかさを指摘したといわれ、そのためか、初当選後10年近くは何のポストにも就けず冷遇された。以降自民党調査局長、経理局長、衆議院法務委員長などの役職を務めた。
1990年、第2次海部俊樹内閣の経済企画庁長官として初入閣。1998年12月には河野洋平、麻生太郎らと宏池会を離脱し大勇会に参加、会長代行を務めた。
金融危機にあたり、1998年8月に衆議院金融問題特別委員長に就任。2000年自民党金融問題調査会会長を務め、2000年7月には更迭された久世公堯の後任として、第2次森内閣の金融再生委員会委員長。2002年、自民党税制調査会(税調)会長に就任(前任は山中貞則)するが、税調が「インナー」と呼ばれる高齢の議員で構成される幹部会によって壟断されていると批判の声が強まる。
2003年、第43回衆議院議員総選挙に鳥取2区から立候補するも、多選・高齢批判などをかわすことができず、かつて自身の秘書を務めていた川上義博に破れ落選した。
政界の一線から退いたものの、現在も大勇会座長を務め、衆議院議長として党と派閥を離れている河野の留守を預かっている。
[編集] 年譜
- 1919年7月:大分県宇佐市に神奈川県人・相沢次郎 くめの二男として生まれる(現在は妻司葉子の故郷である鳥取県境港市渡町に在籍)
- 1942年9月:東京帝国大学法学部政治学科卒業 大蔵省入省
- 1949年2月:下京税務署長
- 1954年11月:主計局主計官
- 1963年6月:主計局法規課長
- 1964年7月:主計局総務課長
- 1965年6月:近畿財務局長
- 1966年7月:主計局次長
- 1969年8月:経済企画庁長官官房長
- 1970年6月:大蔵省理財局長
- 1971年6月:主計局長
- 1973年6月:大蔵事務次官
- 1976年12月:衆議院議員
- 1985年12月:自由民主党政務調査会副会長
- 1990年2月:国務大臣 経済企画庁長官に就任
- 2000年7月:国務大臣 金融再生委員長に就任