新井将敬
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新井 将敬(あらい しょうけい、1948年1月12日 - 1998年2月19日)は、日本の政治家。大阪府大阪市北区曾根崎出身。
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[編集] 来歴
在日朝鮮人の家庭に生まれる。朝鮮名は朴景在(パッキョンジェ、박경재)。1966年に朝鮮籍から日本に帰化した。大阪府立北野高等学校から東京大学理科一類に入学するが、翌年東京大学文科一類に入学しなおす。東京大学経済学部卒業後、一時新日本製鐵に勤務。その後、大蔵省(現財務省)に入る。
キャリア官僚としての経歴は、29歳で酒田税務署長を勤め、銀行局課長補佐に就任する。当時、勢力の拡大を目指し若手官僚を取り込んでいた渡辺美智雄の目にとまり、1981年渡辺美智雄が大蔵大臣に就任すると、その秘書官に抜擢され子飼いとして活躍することになる。この活躍の代表的なものが、証券界が渇望していた小口預金的商品「中期国債ファンド」の導入であり、銀行界及び銀行シンパの大蔵省同僚からの強い抵抗を押し切り、これに成功した。このときの証券業界の幹事が日興証券(現日興コーディアル証券)であり、それ以来、両者の深い関係が始まり、後の事件へとつながる。
1983年の衆議院議員総選挙に東京2区から初出馬。 この時、対立候補だった石原慎太郎の公設第一秘書によって「北朝鮮から帰化」と誹謗中傷するシールを貼られ、選挙妨害で石原を告訴している(後に告訴取り下げ)。その際右翼活動家野村秋介と知り合い、終生つきあうこととなる。
1986年の衆議院議員総選挙で初当選。以後4回当選する。
1990年代に政治改革が政局の焦点になると、改革派の若手論客としてテレビに出演し、脚光を浴びるようになる。安倍晋三らも当時、新井と行動をともにした。1993年(平成5年)の自由民主党の分裂では自民党に残るが(実は新党さきがけ結成参加を希望していた)、細川護煕の後継をめぐる渡辺美智雄擁立劇では先行離党し、柿沢弘治、太田誠一、佐藤静雄、山本拓、高市早苗らと自由党を結成する。その後、院内会派・自由改革連合を結成。
1994年12月、新進党結党に参加し、新進党東京都連では幹事長を務めたが、1996年6月に離党する。その後、初の小選挙区制で行われた第41回衆議院議員総選挙にも無所属で出馬し、自民党公認を得ていた中選挙区時代からの対立候補・大内啓伍を破って再選。選挙後、同じく新進党を離党し無所属で再選した船田元、石破茂らと新会派「21世紀」を経て自民党に復党した。
一連の証券スキャンダルでの借名口座による株取引が問題化。更に日興証券に利益要求していたという疑惑も浮かび上がる。衆議院本会議で逮捕許諾が議決される直前に自殺を示唆するような発言をし、翌日、真相が解明されないまま都内のホテル(ホテルパシフィック東京23階2338号室)で首を吊って予告通り自ら命を断った。部屋にはウイスキーの空き瓶が沢山落ちていた。ただし、自殺には諸説があり、他殺の可能性もないとはいえない。
[編集] 新井将敬を取り上げた書物
- 河信基『代議士の自決──新井将敬の真実』(発行元、三一書房1999) ISBN4380992330
- 大川豊『誰が新井将敬を殺したか』
- 新井真理子『最後の恋文 天国のあなたへ—「新井将敬の妻」は私の天職だった』(発行元、情報センター出版局 2005)
[編集] 新井将敬の自著
- 『『平成の乱」を起こせー信頼回復の原点はこれだ』(発行元、祥伝社1993) ISBN4396610467
- 『エロティックな政治ー生きるため、死ぬための言葉』(発行元、マガジンハウス1994) ISBN4838705018