野村秋介
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野村 秋介(のむら しゅうすけ、1935年 - 1993年10月20日)は、東京府出身の活動家、運動家。
若年の頃は出口辰夫(通称モロッコの辰・後に暴力団稲川会四天王の一人となる)の舎弟。五・一五事件の三上卓との邂逅を経て右翼開眼。戦後新右翼の代表的な論客として知られた。1963年、自民党の政治家・河野一郎邸を焼き討ちし、懲役12年の実刑判決。
出所後の1977年には経団連本部を襲撃、懲役6年の判決を受け再び服役した。
「ヤルタ・ポツダム体制打倒」と「日米安保条約破棄」を軸に、反権力の右翼としての思想を強く主張した。その批判対象は政界・財界からマスコミにも向けられた。ただ本人は左右を超越した「民族主義者」を自認し「右翼」と呼ばれる事を嫌っていたとも言われる。彼は右翼ながら、「在日」朝鮮、韓国人を慮っていた。
1983年、衆議院総選挙東京2区から新井将敬が出馬するも、同選挙区石原慎太郎候補の秘書により、『北朝鮮から帰化』という中傷シールが選挙ポスターに貼られる。-所謂黒シール事件,その際野村秋介が、石原慎太郎候補事務所に猛抗議に行った。持ち前の義侠心からであった。
1992年、参議院選挙に際して「風の会」を組織し比例区から候補者を擁立した。『週刊朝日』誌に「ブラック・アングル」という風刺イラストを連載していた漫画家山藤章二が、これを「虱の党」と揶揄した作品を発表した事をとらえ、朝日新聞に対する抗議の姿勢を強めた。
翌年の1993年10月20日、朝日新聞東京本社に乱入、社長ら首脳と話し合いの後「天皇(すめらみこと)弥栄」と三度言い残し、拳銃自殺。
[編集] 逸話
- 韓国統監府初代統監伊藤博文の暗殺者安重根を憂国の志士と称えていた。立場が違えど、理念を持った体制反逆者に共感したのである。
- 河野一郎邸焼き討ち事件で千葉刑務所に入獄していた時のことである。寡黙で朴訥、勤勉な獄中左翼朴判岩(在日韓国人)が無事故、無欠勤で勤勉に働いていたが、むしろ看守に虐待されているのを見かねて、野村秋介が横田秀雄管理部長に彼の勤勉さ、良識ある行動を報告した。…すると一ヶ月もしないうちに、朴判岩に仮釈放面接が下った。朴は野村秋介にお礼を言ったが、彼は「僕の力ではない。君自身の生きざまというか姿勢が、僕を感動させて、管理部長も感動させたんだ」と、答えた。
- 横浜にその人ありと知られた藤木幸太郎と面期の機会を得た野村は自分の信条をこの大物に語ったことがあったという。この会談の様子は伝わっていないが後日、藤木は紹介者の田中清玄に対して「ありゃ、小僧だな」とまだ青年の客気の残る野村を評したとされる。
- 朝日新聞社で自決した際の遺書の最後には、「息子よ、母さんを頼む」と書かれてあり、家族思いの父親としての一面を見せた。
[編集] 著書
- さらば群青 回想は逆光の中にあり (二十一世紀書院)
- 時代に反逆するー面白く生きようぜ!(河出書房新社)
- 塵中(じんちゅう)に人ありー右翼、任侠、浪漫(太田出版)
- 美は一度限りー落日の美学の闘いの美学(二十一世紀書院)
- 獄中18年 右翼武闘派の回想(二十一世紀書院)
- 野村秋介 獄中句集 銀河蒼茫(二十一世紀書院)
- 友よ荒野を渡れ(二十一世紀書院)
- 行動右翼入門猪野健治衛藤豊久共著(二十一世紀書院)
- 汚れた顔の天使たち(二十一世紀書院)