戸塚哲也
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戸塚哲也(とつか てつや 1961年4月24日 - )東京都出身のサッカー選手、指導者、解説者。都立世田谷工業高校自動車課卒 サッカー選手になっていなかったら、「職業はレーサー」と自称するほどの自動車マニア。
読売クラブの下部組織でプレーし、1979年、当時としての史上最年少の18歳で日本サッカーリーグに出場。キャリア前期はMFのちFW。武田修宏、三浦知良の加入もあり後期はMFに戻る。ポジションの変更は当時読売クラブでエースFWであったラモスとの単純な入れ替えであったと評す向きもある。1981年にはスペイン・バレンシアCFにサッカー留学した実績を持つ他(帰国直後に後楽園球場で行われたハレルヤ蹴球団との試合で30mのミドルシュートを決める。後の決定力あるFWの素質の片鱗を見せる。)、日本代表選手としても活躍。日本リーグ後期からJリーグ黎明期の読売クラブ→ヴェルディ川崎の黄金期を支えるエースストライカーだった。当時日本一のキープ力と称され、その懐深いドリブルで相手方のプレーヤーから球を奪われることは殆どなかった。
1980年、19歳の時に日本代表に初選出。風間八宏、金田喜稔というテクニシャンと共に中盤を形成したスペインW杯予選では惜しくも中国に敗れ予選突破はならなかったが、地元香港の観客を魅了した。その後、度々選出され、代表の10番を背負うなどしたが、1983年頃からは「自由なプレーが出来ない」との理由から辞退し続けた。しかし、1985年に行われたメキシコW杯予選では森孝慈監督の強い要望もあり、日本へ帰化したジョージ与那城(与那城ジョージ氏)と共に,最終予選東京・ソウルでの韓国戦2試合に出場した。もっと早くから戸塚が参戦してチームに溶け込んでいたらと,当時を振り返り惜しむオールドファンは少なくない。
読売・ヴェルディ一筋だった戸塚は、1994年に当時ジャパンフットボールリーグ(JFL)に在籍した柏レイソルにレンタル移籍し、Jリーグ昇格に貢献した後、1996年にJリーグ入りを目指していた栃木県社会人リーグのワールドブリッツ小山(現在休眠中)に移籍。監督兼任でプレーし、天皇杯の栃木県代表へと導いた。その後は現役を引退し、サッカー解説者、指導者として多方面で活躍。2006年2月からは東海社会人リーグ1部のFC岐阜監督に就任している。
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