御着城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
御着城(ごちゃくじょう)は、兵庫県姫路市御国野町御着にあった城。別名、茶臼山城、天川城。城内に山陽道や城下町をとり込んだ惣構えの平城だった。赤松氏の一族小寺氏の居城で、永正16年(1519年)に小寺政隆が築城したと言われる。天正7年(1579年)に羽柴秀吉に攻められ落城、城割が行われ廃城となった。
[編集] 概要
姫路市東方の御着は、山陽道(国道2号の若干南)が通る交通の要衝として、赤松氏の守護所が設けられていたようである。永正16年(1519年)になって小寺政隆が御着の茶臼山と呼ばれる小丘上に城を築いた。姫路城代であった小寺氏が御着城を築いた理由として
などが考えられる。政隆の子の小寺則職の頃から御着城を本城、姫路城を支城としていたようで、姫路城には家老の八代道慶や黒田氏を城代として派遣していた。
天正5年(1575年)、織田氏の中国地方攻略の一環で羽柴秀吉が播磨へ侵攻する。則職の子、小寺政職は家老の黒田孝高(官兵衛、如水)の進言もあり当初は織田氏に通じたが、別所氏や荒木村重の織田氏離反に同調。天正7年(1579年)、秀吉は別所氏の三木城を支援していた播磨の諸城を攻撃、御着城も落城した。
宝暦5年(1755年)に描かれた絵図によると、本丸を囲む内堀があり、北東に隣接する二の丸の外側には3重の堀が巡らされ、南西側は天川を外堀として利用、山陽道や町屋を取り込んだ惣構えだったようである。絵図は後年に描かれた物だが、堀の遺構が残っていることや近年の調査で建物の礎石や瓦、井戸、石垣、土塁、内堀などの一部を発掘したことから、基本的な縄張りは信頼できるのではないかと考えられている。
廃城後、江戸時代には御着本陣が置かれていた。現在、国道2号北側の二の丸跡付近は姫路市東出張所や城址公園、南側の本丸跡付近は民家や小公園などになっている。小公園には小寺氏を祀った祠、小寺明神があり、城址公園西側には黒田孝高の祖父黒田重隆の廟所がある。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 日本の城 | 姫路市 | 兵庫県の歴史 | 日本の歴史関連のスタブ項目