大谷光瑞
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大谷 光瑞(おおたに こうずい、1876年(明治9年)12月27日-1948年(昭和23年)10月5日)は日本の宗教家、探検家。明治後期から大正にかけての浄土真宗本願寺派の第22世門主。伯爵。光瑞は諱で、法名は鏡如。
第21世門主光尊(法名明如)の長男として誕生。幼名は峻麿。貞明皇后の姉九条籌子と結婚。
1902年8月、教団活動の一環として西域探検のためインドに渡り、仏蹟の発掘調査に当たった。途中、1903年1月に父・光尊が死去し、門主を継職するため帰国したが、探検・調査活動は1904年まで続けられた。これがいわゆる大谷探検隊(第1次)である。門主継職後も探検を続行させ、1914年まで計3回にわたる発掘調査等が実施された。
門主としては教団の近代化に努め、日露戦争には多数の従軍布教使を派遣。海外伝道も積極的に進めた。また1913年に孫文と会見したのを機に、孫文が率いていた中華民国政府の最高顧問に就任した。
1908年、神戸六甲山麓岡本(東灘区)に盟友伊東忠太の設計になる二楽荘を建て、探検収集品の公開展示・整理の他、英才教育のための学校、園芸試験場、測候所、印刷所などを設置。文化活動の拠点とした。
1914年、大谷家が抱えていた巨額の負債整理、および教団の疑獄事件のため門主を辞任し、大連に隠退した。二楽荘と探検収集品もこの時に手放している。現在、これらのコレクションは散逸し、二楽荘も1932年に火災で焼失した。
隠退後も文化活動を続け、1919年には光寿会を設立して仏典原典(梵字で記述)の翻訳にあたり、1921年には上海に次代を担う人材育成のために策進書院を開校した。
太平洋戦争中は近衞文麿内閣で参議、小磯國昭・米内光政協力内閣で顧問を勤めた。しかし1945年に膀胱癌に倒れ、入院中にソ連軍に抑留された。1947年に帰国し、翌年別府で死去した。
生前は二楽荘の他、上海や台湾の高雄などに別荘を設けた。現在の須磨離宮公園はその1つで、1907年に宮内省に買い取られたものである。
晩年の地・別府では、当時国際観光都市建設を目指し、政府に特別立法(1950年「別府国際観光温泉文化都市建設法」として制定)を働きかけていた市長・脇鉄一に賛同。助言を与え、自ら私案も立てている。
[編集] 著書
『大谷光瑞全集』13巻
[編集] 外部リンク
- 大谷記念館 - 西本願寺別府別院内に開設。遺品などを展示している。
先代:大谷光尊 | 浄土真宗本願寺派 | 次代:大谷光照 |