土浦城
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太鼓櫓門 (2004年3月) | |
通称 |
亀城 |
城郭構造 |
輪郭式平城 |
天守構造 |
なし |
築城主 |
若泉三郎 |
築城年 |
永享年間 (1429年~1441年) |
主な改修者 |
松平信一・信吉、西尾忠照 |
主な城主 |
若泉氏、小田氏、松平氏 |
廃城年 |
1873年 |
遺構 |
現存櫓門、土塁、堀、復元櫓 |
土浦城(つちうらじょう)は、常陸国にあった城である。現在の茨城県土浦市に位置する。室町時代に築かれ、江戸時代に段階的に増改築されて形を整えた。幅の広い二重の堀で守る平城である。天守は作られなかった。太鼓櫓門が現存し、東西二か所の櫓が復元されている。茨城県指定史跡。 平安時代、天慶年間(938~47)に平将門が砦を築いたという伝説があるが、文献上確かなのは室町時代、永享年間(1429~41)に常陸守護、八田知家の後裔、豪族の小田氏に属する若泉(今泉)三郎が築城したのが最初である。戦国期に入り永正3年(1506年)、若泉五郎左衛門が城主の時、小田氏の部将・菅谷勝貞によって城は奪われ、一時、信太範貞が城主を務め、後に菅谷勝貞の居城となる。しかし、小田氏は上杉・佐竹勢に徐々に圧迫され、小田氏治は小田城を逃れて土浦城に入った。その後、度々小田城の奪回に成功するが永禄12年(1569年)の手這坂の戦いで真壁軍に大敗して勢力を失い、元亀元年(1570年)以降は佐竹氏の攻撃を直接受けるようになり、菅谷政貞・範政親子も主君小田氏を補佐して活躍したが、天正13年(1583年)、ついに小田氏治は佐竹氏の軍門に降る。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原の役の際に菅谷範政は北条氏と結んだため佐竹氏や徳川家康の軍勢に攻められ、主君小田氏とともに滅亡した。関東に入った徳川家康は、土浦を次男で結城氏に養子入りした結城秀康領とし、土浦城を領内の支城とする。秀康が越前国北ノ庄に移ると、藤井松平氏の松平信一が三万五千石で入封。その後松平信吉の代に五千石の加増を受ける。元和3年(1617年)、信吉が上野高崎に転封となって西尾忠永が二万石で入封。以後、城主は西尾氏・朽木氏と代わり、寛文9年(1669年)、土屋数直が四万五千石で入封。土屋氏は、天和2年(1682年)、子の政直のとき天和2年(1682年)駿河田中に移ったが、その後土屋・大河内氏を経て、貞享4年(1676年)土屋政直が再び六万五千石で土浦城主として入封。その後三度の加増を受けて九万五千石となり、常陸国では水戸藩に次いで大きな領地を支配し、以後土屋氏が11代、約200年間世襲して明治維新に至った。
目次 |
[編集] 構造
江戸時代に完成した土浦城は、霞ヶ浦近くの低地に位置し、水を何重にもめぐらせた平城である。
[編集] 本丸
本丸はやや東西に長い長方形である。周囲に水をたたえた堀をめぐらせ、堀に接する内側に土塁をめぐらせ、土塁の上に塀を建てた。出入りには南に二階建ての太鼓櫓門、北東に霞門を設けた。東西に櫓を築いた。土塁上部までの規模は約95m×約55m、土塁敷まで含めた規模は101m×64m、水堀まで含めると約118×82mである。ただし、かつて防衛のため屈曲していた堀・土塁線は現在では直線となっている。
明治17年 (1884年) に火災で本丸御殿が失われた。このとき損傷した本丸東櫓と鐘楼が撤去された。11月に郡役所の建物が御殿跡に建てられた。明治32年 (1899年) に本丸と二の丸南側が亀城公園になった。
昭和元年 (1926年) に郡役所が廃止となり、昭和7年 (1932年) に建物を移築した。移築のとき、本丸北側の土塁を壊した。本丸は整地されて広場になった。昭和24年 (1951年)、キティ台風の被害を受けた西櫓は、昭和25年 (1952年)、復元するという条件つきで解体された。解体時の復元予定は長く実現せず、平成4年 (1992年) に復元された。
江戸時代から存する建造物は、亀城公園内で本丸と二の丸を結ぶ太鼓櫓門と霞門があり、茨城県で唯一、江戸時代からの現存建物遺構の存在する城となっているが、かつて、太鼓櫓門はなんと、ハトのフンが屋根に積もりすぎて、傾いていたそうである。
[編集] 二の丸
明治時代に二の丸西側には憲兵隊土浦支所とその馬屋が建った。戦後その建物に、土浦市郷土資料館が入った。さらに後に、土浦市立博物館が建てられた。
二の丸南側は、明治32年 (1899年) に亀城公園になった。土浦市立博物館の敷地との間に堀があるが、これは後に作られたもので、江戸時代には存在しなかった。
現在ミニ動物園が設置されており、日本猿が数匹飼われている。
[編集] その他
外丸の外丸御殿は、新治郡裁判所に使われた。明治38年 (1905年) に放火によって外丸御殿が焼失した。その他はすべて廃城のときに取り壊されてなくなり、往時をしのばせるものはない。
[編集] 歴史
[編集] 室町時代以前
平安時代、天慶年間(938~47)に平将門が砦を築いたという伝説があるが、文献上確かではない。
[編集] 室町時代から安土桃山時代
文献上確かなのは室町時代、永享年間(1429~1441)に常陸守護、八田知家の後裔、豪族の小田氏に属する若泉三郎が築いたのが初めてである。 永正13年 (1516年) に小田氏の部将・菅谷勝貞が若泉五郎右衛門を滅ぼし、その家臣(菅谷某または信太範貞)が城に入った。後、菅谷氏が勝貞、政貞、範政の三代にわたって土浦城を守った。戦国時代に佐竹氏が勢力を広げると、佐竹によって本拠の小田城を追われた小田守治が入城した。
戦国時代が終わると、土浦は結城城の結城秀康のものになり、小田氏はその家臣になった。代わって多賀谷村広が城代を務める。慶長6年 (1601年) に秀康が越前国に転封になると、藤井松平氏の松平信一が土浦城に入った。信一と子の信吉が、現在の城のおよその形を作ったと考えられている。
昭和61年 (1986年) の発掘調査で、戦国時代に本丸で大きな火災があったことが判明した。対応する文献が発見されていないので時期や原因を知ることは今のところできない。
[編集] 江戸時代
元和3年 (1617年) に松平信吉が上野国の高崎に転じると、土浦には西尾忠永が入った。元和6年 (1620年) に西櫓と東櫓が作られた。元和8年 (1622年) に、忠永の子忠照が、本丸の正門を櫓門に改めた。これにより本丸は水堀と柵つきの土塁、三つの櫓で守られるようになった。
慶安2年 (1649年) に西尾忠照は駿河国の田中に移った。かわって朽木稙綱が城主となり、明暦2年 (1656年)に櫓門を現在ある形の太鼓櫓門に改築した。万治元年 (1658年) に、英庫と焔硝倉を建造した。万治元年、搦め手門、外記門を瓦葺きにした。朽木種昌の代に、土塁上の塀をすべて瓦葺に改めた。
寛文9年 (1669年) に土屋数直が入った。土屋氏は元来武田氏」家臣で滅亡によって家康に仕え、数直の代に大名になった。後述の松平信興の時代を除いて、これ以後江戸時代を通じて土浦城の主は土屋氏であった。延宝6年 (1678年]) に二の丸に米倉が建てられた。
天和2年 (1682年) から貞享4年 (1687年) までは、松平信興が城主であった。信興は貞享2年 (1685年) に兵庫口と不破口を作り、門を建てた。また、本丸の霞門を改築し、翌年にかけて水戸口の虎口を改良して二重丸馬出虎口とした。
[編集] 明治時代以降
廃藩置県の2年後、明治6年 (1873年) 1月に、太政官符令第84号で土浦城は廃止された。本丸御殿は新治県の県庁、後に新治郡の郡役所として使われた。本丸の他の建造物もほとんど残されたが、土塁上の塀は取り壊された。二の丸以下の建物は外丸御殿を除き取り壊され、堀が埋められた。
[編集] 城主一覧
- 若泉三郎 (永享年間~?、1429年ないし1441年~?)
(この間不明)
- 若泉五郎右衛門 (?~永正13年、?~1516年)
- 菅野某、あるいは信太範貞 (永正13年~?、1516年~)
(この間不明)
- 菅野勝貞 (?)
- 菅野政貞 (?)
- 菅野範政 (?)
- 結城秀康 (天正18年~慶長6年、1590年~1601年) 持城とし、本拠とせず
- 松平信一 (慶長6年~慶長9年、1601年~1604年)
- 松平信吉 (慶長9年~元和3年、1609年~1617年)
- 西尾忠永 (元和3年~元和6年、1617年~1620年)
- 西尾忠照 (元和6年~慶安2年、1620年~1649年)
- 朽木稙綱 (慶安2年~寛文元年、1649年~1661年)
- 朽木種昌 (寛文元年~寛文9年、1661年~1669年)
- 土屋数直 (寛文9年~延宝7年、1669年~1679年)
- 土屋政直 (延宝7年~天和2年、1679年~1682年)
- 松平信興 (天和2年~貞享4年、1682年~1687年)
- 土屋政直 (貞享4年~享保4年、1687年~1719年)
- 土屋陳直 (享保4年~享保19年、1719年~1734年)
- 土屋篤直 (享保19年~安永5年、1734年~1776年)
- 土屋寿直 (安永5年~安永6年、1776年~1777年)
- 土屋泰直 (安永6年~寛政2年、1777年~1790年)
- 土屋英直 (寛政2年~享和5年、1790年~1803年)
- 土屋寛直 (享和5年~文化8年、1803年~1811年)
- 土屋彦直 (文化8年~天保9年、1811年~1838年)
- 土屋寅直 (天保9年~慶応4年、1838年~1868年)
- 土屋挙直 (慶応4年~明治2年、1868年~1869年)
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 土浦市遺跡調査会編『土浦城二の丸・本丸試掘調査 発掘調査報告書』、1998年。
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