八田知家
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八田知家(はったともいえ、1142年(康治元年) - 1218年(建保6年))は鎌倉時代の御家人。藤原道兼の曾孫の藤原宗円の子である宇都宮宗綱(八田宗綱)の四男(源義朝の子という説もある)。妹は源頼朝の乳母。鎌倉幕府の十三人の合議制の一人。小田氏の始祖であり小田城の築城者。
1156年の保元の乱では源義朝側について戦い、功績をあげる。1180年、源頼朝が挙兵したのに応じて源氏側につき、平家と戦う。1189年、千葉常胤と共に東海道大将軍に任ぜられ、奥州征伐に参戦し、福島の浜通りから奥州藤原氏を追い詰めていった。
1193年、曾我兄弟の事件をきっかけに、従兄弟であり常陸大掾氏の多気義幹を北条時政と共に罠にはめて領地を没収し、自分の本拠地を下野から常陸に移した。
1196年には降伏して捕らえられた平景清を自邸に預かっている。
1199年、頼朝が没し、後を継いだ2代将軍源頼家の専制を抑えるために結成された十三人の合議制の一人となる。1203年には謀反を起こした頼朝の弟・阿野全成を幕府の仰せにより誅殺する。
1218年、没。
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