二宮尊徳
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二宮 尊徳(にのみや そんとく、天明7年7月23日(1787年9月4日) - 安政3年10月20日(1856年11月17日))は日本の江戸時代後期に「報徳思想」を唱えて、「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を指導した農政家・思想家。通称は金次郎。ただし、「金治郎」の表記が正しい。諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と訓む。
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[編集] 生涯
相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山)に百姓利右衛門の長男として生まれる。当時の栢山村は小田原藩領であった。14歳で父利右衛門が死去、2年後には母よしも亡くなり、尊徳は伯父二宮万兵衛の家に預けられた。伯父の家で農業に励むかたわら、荒地を復興させ、また僅かに残った田畑を小作に出すなどして収入の増加を図り、20歳で生家の再興に成功する。この頃までに、身長が6尺(約180センチ強)を超えていたという伝承もある。
生家の再興に成功すると尊徳は地主経営を行いながら自身は小田原に出て、武家奉公人としても働いた。奉公先の小田原藩家老服部家でその才を買われて服部家の財政建て直しを頼まれ、見事に成功させて小田原藩内で名前が知られるようになる。その才能を見込まれて、小田原藩大久保家の分家であった旗本宇津家の知行所であった下野国桜町領(現在の栃木県芳賀郡二宮町周辺)の仕法を任せられる。後に東郷陣屋(栃木県真岡市)にあって天領(真岡代官領)の経営を行い成果を上げる。その方法は報徳仕法として他の範となる。その後、日光山領の仕法を行う。栃木県今市村(現在の日光市)にて没。
二宮の仕法は他の農村の規範となった。没後の1891年に従四位が追贈されている。弟子の大友亀太郎は旧幕府下で札幌村の開拓を指導。亀太郎は札幌開拓の始祖と呼ばれる。
二宮尊徳をまつる二宮神社が、生地の小田原(報徳二宮神社)、終焉の地・今市(今市報徳二宮神社)、仕法の地・栃木県芳賀郡二宮町(桜町二宮神社)などにある。尊徳記念館が神奈川県小田原市栢山にある。栃木県芳賀郡二宮町にも二宮尊徳資料館がある。
[編集] 逸話
二宮に関しては多くの逸話が残っている。事実かどうか確認できないものも多いが、伝記などに多く記述される代表的な逸話には次のようなものがある(これらの逸話の多くは、二宮の伝記『報徳記』を由来とする)。
- 小田原時代
- 子供の頃、わらじを編んで金を稼ぎ、父のために酒を買った。
- 両親の死後、叔父の家に預けられると、寝る間も惜しんで読書をした。油代がもったいないと叔父に指摘されると、荒地に菜種をまいて収穫した種を菜種油と交換し、それを燃やして勉学を続けた。
- 田植え後の田に捨てられている余った稲を集めて荒地に植えて耕し、米を収穫した。
- 一斗枡を改良し、藩内で統一規格化させた。役人が不正な枡を使って量をごまかし、差分を横領していたのをこれで防いだ。
- 倹約を奨励し、かまど番から余った薪を金を払って買い戻した。
- 桜町時代
- ナスを食べたところ、夏前なのに秋茄子の味がしたことから冷夏となることを予測。村人に冷害に強いヒエを植えさせた。二宮の予言どおり冷夏で凶作(天保の大飢饉)となったが、桜町では餓死者が出なかった(実際には、数年前からヒエを準備させていたことが分かっている)。
- 早起きを奨励した。
- 開墾を奨励し、木の根を掘った老人にほうびを与えた。
- 村人らに反感を持たれ、復興事業が上手く行かなくなると、突然行方不明になった。間もなく成田山で断食修業していることが判明。修業を終えて戻ると村人らの反感もなくなっていた。
- 村人の仕事ぶりを見て回り、木の根しか撤去できない、周りの村人から馬鹿にされていた老人に15両もの褒美を与え、逆に他の村人より3倍近く働いている(人が見ている時だけ働いているように見せかけ、普段はサボっている)若者を厳しく叱った。
[編集] 像
各地の小学校などに多く建てられた、薪を背負いながら本を読んで歩く姿に関する記述は、1881年発行の『報徳記』で現れる。ただし、薪を拾って売り、その金で勉学をしたのは事実だが、このような姿で実際に歩いていたという事実はないとされる。報徳記を基にした幸田露伴著の『二宮尊徳翁』(1891年)の挿絵で、はじめて薪を背負って歩く姿の挿絵が使われた。確認されている最初のこの姿の像は、1910年に岡崎雪聲が東京彫工会に出品したものである。1904年以降、国定教科書に修身の象徴として二宮が取り上げられるようになった。小学唱歌にも二宮金次郎という曲がある。昭和初期に地元民や卒業生の寄付によって各地の小学校に像が多く建てられた。そのとき、大きさが1mとされ、子供たちに1mの長さを実感させるのに一役買ったといわれることがあるが、実際に当時に製作された像はきっかり1mではないことが多い。これは、1940年ごろに量産された特定の像に関する逸話が一人歩きしたものと考えられる。この像が戦後、連合軍総司令部(GHQ/SCAP)の指令により廃棄されたといわれることがあるが、二宮尊徳が占領下の1946年に日本銀行券(1円券)の肖像画に採用されていることからも分かるとおり、像の減少と連合軍総司令部は特に関係は無い。戦前の像は銅製のものが多く、これらの多くが第二次世界大戦中の金属供出によって無くなったため、混同されたものと考えられる。石像のものはその後の時代も残った。また、残った台座の上に、新たに銅像やコンクリート像などがつくられることもあった。像のように薪を背負ったまま本を読んで歩いたという事実が確認できないことと、児童が像の真似をすると交通安全上問題があることから、1970年代以降、校舎の立替時などに徐々に撤去され、像の数は減少傾向にある。岐阜市歴史博物館調べによると、市内の小学校の55.1%に二宮尊徳像が存在し(2001年現在)、近隣市町村を含めると、58.5%の小学校に二宮尊徳像が存在する。ただしこれは局地的な統計であることに注意する必要がある。栃木県芳賀郡二宮町では、町内の全小中学校に像がある。(2004年現在)また、2003年に小田原駅が改築され橋上化された際、デッキに尊徳の像が新しく立てられた。
また、撤去した像が骨董品として売却されることもある。尊徳像が何者かによって持ち去られるという盗難事件もこれまでに全国で数件発生している。持ち去りには建設用機材が必要であるのでプロの犯行と見られる。幸いにして発見され、元の場所に戻すことができたケースもあった。
[編集] 関連事項
[編集] 参考文献
- 富田高慶『報徳記』宮内省 1883年
- 奈良本辰也『二宮尊徳』(『岩波新書』)、岩波書店、1959年1月(のち、特装版『岩波新書の江戸時代』に収録、1993年7月刊。ISBN 4-00-009123-9)
- 守田志郎『二宮尊徳』(『朝日評伝選』2)、朝日新聞社、1975年9月(のち、『朝日選書』に収録、1989年7月刊。ISBN 4-02-259482-9 / のち、農山漁村文化協会発行の『人間選書』247に収録、2003年3月刊。ISBN 4-540-02218-0)
[編集] 外部リンク
- 尊徳記念館(神奈川県小田原市)
- 二宮尊徳資料館(栃木県二宮町)
- 「二宮翁夜話」現代語翻訳