丸岡城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
|
![]() |
|
丸岡城天守 | |
通称 |
霞ヶ城 |
城郭構造 |
連郭式平山城 |
天守構造 |
独立式望楼型 |
築城主 |
柴田勝豊 |
築城年 |
1576年 |
主な改修者 |
|
主な城主 |
本多氏、有馬氏 |
廃城年 |
1871年 |
遺構 |
現存天守、移築門、石垣 |
目次 |
[編集] 概要
城は丸岡市街地の東に位置し、小高い丘の周囲を珍しい五角形の内堀が廻っていた。江戸時代は丸岡藩の藩庁となった。
天守は重要文化財であり、現存する天守としては最古とされる。天守の他には石垣が残る。五角形の内堀は現在埋め立てられているが、この内堀を復元する計画が浮上している。
[編集] 歴史
天正4年(1576年)に柴田勝家の甥である勝豊が丸岡に築城した。天正10年(1582年)本能寺の変の後の清洲会議により、勝豊は近江国長浜城に移された。代わって勝家は安井家清を城代として置いた。
天正11年(1583年)柴田勝家は豊臣秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされると、この地は丹羽長秀の所領となり、丸岡城主に青山修理亮を置いた。修理亮の子・忠元は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍方につき改易された。
越前国には徳川家康の次男・結城秀康が入封し、丸岡城には結城家家臣の今村盛次が2万6千石を与えられ入城した。しかし盛次は慶長17年(1612年)に起こった越前騒動に連座し失脚となった。
代わって”鬼作左”本多重次の嫡子・成重が4万3千石で新たな城主に据えられた。成重は寛永元年(1624年)秀康の子・松平忠直が不行跡により豊後配流となると、そのまま大名に列し丸岡藩が成立した。元禄8年(1695年)4代重益の時、お家騒動が起こり改易となった。
代わって有馬清純が越後国糸魚川藩より5万石で入城。以後、有馬氏6代の居城となり明治維新を迎えた。
明治4年(1871年)の廃藩置県により廃城となり天守以外全て解体された。残された天守は明治34年(1901年)丸岡町の所有となり解体を免れ城跡は公園となった。大正後期から昭和初期にかけて本丸を囲んでいた堀は徐々に埋められ消滅した。
昭和9年(1934年)に天守は国宝に指定されるが、昭和23年(1948年)に福井地震のために倒壊。昭和25年(1950年)文化財保護法制定により重要文化財となった。昭和30年(1955年)に倒壊した天守の廃材を用い、元通り修復された。