ビザンティン建築
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ビザンティン建築 (Byzantine Architecture ) は、ビザンティン帝国(東ローマ帝国)の勢力下で興った建築様式。4世紀頃には帝国の特恵宗教であるキリスト教の儀礼空間を形成し、そのいくつかは大幅な補修を受けているものの今日においても東方正教会の聖堂、あるいはイスラム教のモスクとして利用されている。ローマ建築円熟期の優れた様式・技術を継承し、早い段階で成熟期をむかえたが、その後、伝統を墨守する国民性により発展的状況をむかえることはなく、徐々に衰退していった。
中期以降は、東ローマ帝国の勢力圏のみならず、キリスト教の布教活動とともに、ブルガリアやアルメニア、ユーゴスラヴィア、ロシアといった東欧諸国に浸透していった。その影響力は緩やかなもので、地域の工法・技術と融合しながら独自の様式を発展させた。
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[編集] 概説
ビザンティン建築を単に時代区分として捉えた場合、コンスタンティヌス大帝が330年に首都をビザンティウム(のちコンスタンティノポリス)に移転した時から、1453年のオスマン帝国によるローマ帝国滅亡までのほぼ1100年間にも及ぶ時代を指している。
しかし、「ビザンティン帝国」「東ローマ帝国」の呼称が、現代の歴史編集によって、東方世界に継承されたローマ帝国を便宜上区分しているのと同様に、ビザンティン建築についても、ローマ建築との様式的、工学的な転換点が明確に存在するわけではない。つまり、初期のビザンティン建築はまさに世界帝国ローマの建築(末期ローマ建築)と言え、勢力下に張り巡らされた建築材料の流通経路や建設のための高度な施工技術はローマ建築のものをそのまま継承している。
ローマ建築から様々な要素を継承したビザンティン建築は、帝国の国教となったキリスト教の礼拝空間を形成した。初期キリスト教建築はローマ時代の世俗建築であるバシリカを採用したが、ユスティニアヌス帝の君臨した5世紀に、宗教空間としてより象徴性の高いドームを取り入れた儀礼空間を創造する。 ハギア・ソフィア大聖堂はその嚆矢であり、バシリカとドームを融合した内部空間はそれまでにない全く新しい形態であった。これは、ローマ帝国から受け継がれた高度な建築技術によって完成したものであり、初期ザンティン建築の傑作であるとともに、ローマ建築の技術的な最終到達点であると言える。
しかし、 イスラム帝国や異民族の侵入による国土の縮小、帝国の政治機構の転換にともなってビザンティン建築も変容し、やがて初期ビザンティン建築とは異なった特有の建築形態を獲得するに至った。このため、7世紀以前を末期ローマ建築あるいは初期キリスト教建築、それ以後の時代をビザンティン建築と呼ぶべきとの指摘もある。
中期以降の東ローマ帝国は貿易幹線路の支配権を失い、唯一の大都市コンスタンティノポリスを擁する農業国となったので、初期の建築とは必然的に異なる様相を見せる。バシレイオス帝の元で東ローマ帝国は最盛期を迎えるが、巨大な公共建築物は必要とされなくなり、建設の主流は貴族や有力者の個人礼拝のための施設に向けられた。これは9世紀まで続いた聖像破壊運動が修道院の独立を促し、修道院の建設、移転、譲渡が裕福な寄進者によって行われるハリスティケと呼ばれる制度が形成されたことによる。多数の人員を収容する必要がなくなったため、教会堂は小型化し、の結果、それまでのバシリカは放逐されて、内接十字型やスクィンチ型とよばれるドームを頂く中小規模の教会堂建築が主流となった。
9世紀から13世紀までの中期ビザンティン建築はほとんど変化しなかったが、十字軍の侵入による国家の分裂、西ヨーロッパの宮廷とのつながりなどにより、帝国末期には多様性が見られるようになった。末期ビザンティン建築には、ロマネスク建築やゴシック建築の影響を受けたものも散見される。
東ローマ帝国では、住宅や宮殿、貯水槽、要塞、橋梁、慈善施設などの建造物が造られたことが豊富な文献より明らかであるが、こうした中期以降の世俗建築はほとんど残っていない。また、東ローマ帝国の文書は細部の説明が不明瞭で、日常生活についての記述ほとんどないため、ビザンティン建築の実情をはっきりと説明できる建築物はどうしても残存する教会堂建築に限られる。しかし、東ローマ帝国の人々は教会建築しからなかった訳ではない、ということは考慮する必要がある。
[編集] 歴史
[編集] 初期ビザンティン建築
4世紀から6世紀までの初期ビザンティン建築は、末期ローマ建築の要素と初期キリスト教建築が混在しているが、両者の明確な区別はほとんど不可能である。また、この時代の宮殿・住居などの世俗建築は図版や文献も含めてあまり残っておらず、これらの建築の研究成果はあまり芳しいものではないので、これについての記述は今後の発掘・研究を待たねばならない。一方で、今日、初期キリスト教建築と呼ばれる建築群については、原型のまま残っているものはないものの、文献や遺構の調査によってその全貌が知られている。
[編集] 初期キリスト教建築
黎明期のキリスト教は美術に対して敵対的で独自の宗教美術は持たず、文献などから宗教行事は比較的大きな個人邸宅を借用していたと考えられている。しかし、布教地域が拡大するにつれて宗教美術も発展しはめ、4世紀前半にはローマの神々を祭る異教礼拝堂を思わせないバシリカを採用することで礼拝空間を確立した。
ローマ建築におけるバシリカはそもそも礼拝を目的とした建築ではなかったが、キリスト教の宗教儀礼は一般信徒と司祭が参加する集会的形態であったので、宗教空間としては有効に機能したと推察されている。ただし、これはキリスト教独自の活動ではなく、ユダヤ教やミトラ教も同様で、ロンドンのクイーン・ヴィクトリア・ストリートに存在するミトラ教寺院(2世紀頃)の遺構などもバシリカ式神殿であることが知られている。
初期キリスト教建築としては、ローマにはじめて建設されたローマ司教座教会堂であるコンスタンティヌスのバシリカ[1]や、 450年頃にコンスタンティノポリスに建設されたストゥディオス修道院のアギオス・ヨアンニス聖堂(現在は廃墟)、同時代にテッサロニキに建設されたアギイ・アヒロピイトス聖堂、レカイオンにあるアギオス・レオニダス聖堂、ラヴェンナに550年頃建設されたサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂、エルサレムの聖墳墓聖堂などが挙げられる。これらは全てバシリカである[2]。バシリカはキリスト教の儀礼空間としての必要性から採用されたというよりも、むしろ建設が容易で比較的自由に大きさを決めることができ、装飾によって神聖な空間を得やすく、儀礼空間として融通が利くという実際的な理由から大量生産されたと考えられている。
初期キリスト教建築として特筆すべきもうひとつの重要な建築は、聖地や殉教者の記念碑として建設されたマルティリウム(記念礼拝堂)である。324年頃に建設されたローマのサン・ピエトロ大聖堂は、典礼を行うための教会堂ではなく、ペテロの墓所を参拝するための記念礼拝堂として建設された。333年頃に起工されたベツレヘムの聖降誕教会やキリストが弟子たちに説法をおこなったとれる洞窟を収容したエレオナ教会礼拝堂、ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂 、5世紀中期に建設されたテッサロニキのハギオス・デメトリオス聖堂などの建築はすべてマルティリウムであが、崇拝の対象物や敷地の形状に従わなければならなかったため、バシリカ、八角堂、十字型など、様々な形式で創られた。また、その多くは修道院や付属教会堂など、徐々に様々な用途の建築が建増しされ、大規模な複合建築物となった。5世紀初期に建設された柱上行者聖シメオンを祭ったアンティオケイア近郊カラート・セマーン建築群、ルザファ建築群、ゲラサ建築群などは、その好例である。
カラート・セマーン建築群という巨大宗教施設は5世紀末から急速に繁栄した北シリアの経済発展がもたらしたものであるが、5世紀末から6世紀初頭のキリスト教建築は、地域の独自性というものも見過ごすことのできない大きな潮流となっていた。これは地域の経済活動と修道院主義の結びつきや、帝国の地政学的要因、あるいは神学論争と関連する(詳しくはキリスト教の歴史を参照)。特に、隔たりを大きくしたキリスト教各派の神学論争は地域性に深い影響を与えており、カラート・セマーンのように皇帝の経済援助を受ける修道院は別として、この当時のシリア、エジプトの教会建築はコンスタンティノポリスの影響をほとんど受けることがなかった。これは異端とされた単性論教会の活動によるものである。
[編集] ユスティニアヌス帝時代の建設事業
553年から始まるユスティニアヌス帝の時代は、初期ビザンティン建築の胚胎期でありコンスタンティノポリスのハギア・ソフィア大聖堂、その先駆的建築と伝えられているアギイ・セルギオス・ケ・バッコス聖堂[3]、アギオス・ポリエウクトス聖堂[4]といった偉大なキリスト教建築物が建設された。これら首都の教会堂は、皇帝による事業という境遇や、その大きさらいって各地で安易に模倣されるものではなく、プランついても当時としてはかなり大胆なもので、当時のビザンティン建築の一般解とよべるものではない。しかし以下に挙げるビザンティン建築の一般的な特徴が認められる。
- 複雑な組積構造のため、独立柱と水平梁が衰退した。
- 東ローマ帝国はギリシア世界であったが、ギリシア建築由来の独立柱・水平梁は構造的意味を失い、全く消滅してしまうか、あるいは副次的な要素でしかなくなった。
- バシリカとドームを融合するプランが形成された。
- ユスティニアヌスの時代には首都に限られた事象であるが、ドームを頂く集中型教会堂とバシリカ型教会堂を組み合わせた円蓋式バシリカ(コンパクト・ドーム・バシリカ)と呼ばれる形式の教会堂が建設された。ハギア・ソフィア大聖堂もその試みのひとつで、より小型のものでは皇帝宮殿の側に建設されたアギア・イリニ聖堂がある。しかし、それまでのバシリカ型教会堂も継続して建設された。
ユスティニアヌスの時代は比較的多くの文献・建築が残っており、初期キリスト教建築以外の世俗建築についての情報が得られている。
プロコピオスの記述した文献からは、ユスティニアヌスの主眼があらゆる意味での国家防衛政策にあり、建築的関心はアナスタシウス1世から引き継いだ国境線の防壁補強事業に注がれていると指摘されている。コンスタンティノポリスは、すでにテオドシウス2世の城壁によって十分に拡張されていたが、ユスティニアヌスは国境の防衛をはかるため、地方都市の城壁を首都に倣って増強した。ユスティアナ・プリマ(現ツァリチン・グラード)やセルギオポリス(現ルザファ)、ゼノビア、アインタプ(現ガズィアンテプ)とった市街には難攻不落の城塞が建設され、意図的に破壊されていないものは、現在でもその姿を目にすることができる。ユスティニアヌスにより、シナイ山に燃える柴を記念して建設されたアギア・エカテリニ修道院も、帝国が異民族の侵入を防ぐための防衛屯所であり、防壁に囲まれた武装修道院として設立された。
東ローマ帝国の給水設備についてはあまりよく分かっていないが、ユスティニアヌスの時代に2つの大貯水槽が造られたことが知られている。ひとつは今日、地下宮殿(イェレバタン・サラユ)と呼ばれる138m×65mにも及ぶシステルナ・バシリカで、1列12本の列柱を28列備えたものである。柱はアカンサス柱頭を備えた一見豪華なものであるが、実際には5世紀に流行した型で、当時石工がもっていた在庫品を分したものであるとの見方が有力である。もうひとつ千一本の円柱宮殿と呼ばれるフィロクセノス貯水槽である。こちらはインポスト柱頭を用いた64m×56m貯槽だが、構造は2本の円柱を上下に連結した大胆なもので、天井から床までのさは15mにも達する。このような危険な構造を採用したのは、15m近い柱を調達するよりもコストと手間が省けるからである。
ユスティニアヌス時代のビザンティン建築は、始まりであるとともに世界帝国ローマの、そしてローマ建築の技術的可能性の最終局面であると言える。以後のビザンティン建築は、この時代の技術革新によってもたらされた要素を継承していくが、これをさらに発展していくことはなかった。
[編集] 暗黒時代
600年前後に始まる暗黒時代は、東ローマ帝国の建築活動に完全な停滞をもたらした。東ローマ帝国の勢力範囲はその大部分がイスラム国家や他民族によって侵略を受け、これらの地域で今日まで遺る初期ビザンティン建築はほとんど存在していない。コンスタンティノポリスや、テッサロニキ、アテナイなど、侵略を受けなかった地域でも新たな建設は行われなかったか、あるいは行われたとしても、その多くは施工精度の悪いものであった。
多くの研究にも関わらず、この時期に建設された建物の詳しい年代や建設意図の大部分はよく分かっていない。この時代に建設されたと確認できる教会堂は、テッサロニキのアギア・ソフィア聖堂のほかわずかしか知られていないが、ハギア・イリニ聖堂に見られる円蓋式バシリカが地方都市の聖堂形式として建設されていったことが確認される。
暗黒時代のビザンティン建築は、イスラムに包囲されて疲弊した首都に、援軍としてむかえられたアルメニア人やグルジア人によって保持された。彼らは常に独自性を保ちながらビザンティンの文化を取り入れ、帝国が暗黒時代に突入するまさにその時期に芸術の最盛期を迎えた。
アルメニアの教会建築は5世紀ころにまで遡り、初期にはトンネル・ヴォールトを用いたバシリカを採用した。しかし、6世紀末にはバシリカは造られなくなり、代わってドームを持つ集中形式が好まれるようになった。7世紀に東方キリスト教を主導するに至ったころには、概ね三葉型、八角堂型、円筒形の四葉型、内接十字型の4つの形式が発展する。これらはメソポタミアから北シリアにいたる東方の形式を取り入れたものと考えられるが、これらの地域の教会建築がまったく残っていないため、どのようなかたちでそれがアルメニア建築のなかに取り入れられたのかは分かっていない。彼らもまた、7世紀後半にはイスラム帝国の侵略の前に屈服し、その教会堂も大半が放棄され、廃墟となった。
[編集] 中期ビザンティン建築
アラブ人の侵略によって国土を大幅に縮小したビザンティン帝国は、9世紀前半になってようやく安定を取り戻し、失われた領土の回復を進めていく。文化の面でも古代ギリシャ・ローマ文化の復興運動、すなわちマケドニア朝ルネサンスが興った。この帝国の建築活動が7世紀頃まで変遷過程にあったこと、9世紀以降に内接十字型と呼ばれる独自の建築平面を獲得したことを考慮し、9世紀の東ローマ帝国の建築をもってビザンティン建築の始まりとすべきという指摘もある。
[編集] 再生の時代の教会建築
マケドニア王朝の開祖バシレイオス1世はローマ帝国再生を唱え、ユスティニアヌスに倣って建築活動を積極的に行い、ハギア・ソフィア大聖堂をはじめとする荒廃した教会堂を修復し、新たに教会と宮殿の一角を建設した。総主教フォティオスのもと、帝国は栄光の再生を夢見たが、ユスティニアヌス帝の建設活動が主として巨大公共建築であったのに比べると、バシレイオス帝の建築活動ははるかに規模が小さく、私的建築活動と呼ぶべきものであった。宮廷の建築活動はすでにかなり縮小しており、その影響力も農業中心の地方域には波及せず、ビザンティン唯一の大都市であるコンスタンティノポリスに限定されたものであった。このような私的援助は宮廷に限らず貴族によって模倣され、ビザンティン建築はこの後、私的建築活動によって存続することになる。
976年から始まるバシレイオス2世の治世になると、国庫の収入は改善され、セルジューク朝侵入に至る1071年まで、ビザンティン建築は活動最盛期を迎えることになる。バシレイオス2世は厳格な軍人皇帝であったため、その偉業にも関わらず、彼の銘による建築は現在まで発見されていない。皮肉にも、中期ビザンティン建築の革新は、彼の後継者たちの散財によってもたらされた。11世紀は建築の革新期で、1028年のロマノス3世アルギュロスによるパナギア・ペリブレプトス修道院、1034年にミカエル4世によって建設されたアギイ・コスマス・ケ・ダミノス聖堂、コンスタンティノス9世モノマコスによるマンガナのハギオス・ゲオルギウス聖堂[5]などの大規模で壮麗な教会堂が建設された。これらはどれも現存していないが、当時建設された教会建築に大きな影響を与え、ネア・モニ修道院中央聖堂にみられるスクィンチ式教会堂など、新しい平面計画をもたらしたと考えられている。
セルジューク朝の侵攻と第一次十字軍の派遣という東西文化の軋轢に悩まされるコムネノス王朝時代には、中期ビザンティンの建築活動は保守的になり、マケドニア朝の革新的な平面計画は棄てられ、すでに確立した内接十字型平面が好まれるようになった。キリスト・パンテポプテス修道院聖堂[6]は、皇帝アレクシオス1世の母アンナ・ダラセーナによって1100年に創建されたが、建築形態は内接十字型のうち4円柱式と呼ばれる平面で、見新しい要素は全くない。1124年頃に建設されたキリスト・パントクラトール修道院[7]の北聖堂であるテオトコス・エウレーサ聖堂も同様である。
中期ビザンティンの教会堂は私的礼拝のために建設されたものだったため、大規模なものは存在しない。また、その需要があっても、この時代にはそれほどの大規模建築物を建てる国家基盤はなく、建築的関心は修道院の教会堂建設に向けられていた。
[編集] 修道院の建築活動
修道院の建設は中期ビザンティン建築の主たる特徴である。10世紀頃までには、カルケドン公会議に司教の監督下に措かれた各修道院は聖像破壊運動を忌避してその管理下から逃れ、かなりの独自性を持つようになっていた。
スラブ人やブルガリア帝国から奪還されたバルカン半島では、961年に聖アナスタシウスがラヴラ修道院を建設した後、ギリシャ正教最高の聖地となったアトス山の修道院や、フォキスにあるオシオス・ルカス修道院、 ヒオス島のネア・モニ修道院など、多くの修道院が建設されている。修道院は多くの建築複合体であり、中央教会堂(カトリコン)を残してその他の施設が消滅している場合もあるが、今日に至るまで残存しているものも多い。また、都市人口の減少にともなって、都市部に開設される修道院も認められるようになった。
中期ビザンティンの修道院は、多くの場合、一部の裕福層からの寄進によって建築活動を行うようになった。都市部の修道院のなかには、彼らに施設そのものを不動産して譲渡、売却することも行われた。
コンスタンティノポリスでは、貴族出身のコンスタンティノス・リプスによって建てられた修道院[8]北教会堂が挙げられる。907年に創建された教会堂はそれほど大きなものではないが、献堂式に皇帝も列席するほど壮麗な建築で、大量の彫刻装飾と大理石の象眼、釉薬タイルによって装飾されていた。
コンスタンティノポリスのその他の修道院としては、ロマノス・レカペノス提督(皇帝ロマノス1世)のミュレレオン修道院中央聖堂[9]、イサキオス・コムネノスによるコーラ修道院中央聖堂[10]などが挙げられる。地方都市では、テッサロニキのパナギア・ハルケオン聖堂、ボイオティアのスクリプー修道院のコイメシス聖堂などで、貴族の寄進による修道院建設を見ることができる。
貴族の寄進に頼るこれら中期ビザンティンの教会堂建築に大規模なものは存在しないが、その代わりに外部空間はかなり意識されるようになったようである。内部空間の重要性に変わりはなかったが、中央聖堂は修道院中庭に孤立して建設されたため、外部を装飾する意識が生まれたようである。オシオス・ルカス修道院のテオトコス聖堂では、外壁の煉瓦積みがクロワゾネと呼ばれる技法によって構成され、クーファ文字をモティーフとした浮き彫りによって装飾されており、同様のモティーフはテッサロニキのパナギア・ハルケオン聖堂でも見られる。また、アクダマル島のスルブ・ハツ聖堂は外部を美しい浮き彫りで覆っている。
[編集] 末期ビザンティン建築
12世紀末期になると、ビザンティン帝国は政治的には小公国のゆるやかな連合体となり、これは1204年のコンスタンティノポリス陥落以後、より一層加速された。ニカイア帝国によって首都は奪還されるものの、軍事力・経済力などの面で、帝国は往年の繁栄からは程遠いまでに衰退しており、同時代の壮麗なイスラム教礼拝堂やカトリック教会堂を凌駕するような建築は建てられなかった。
亡命政権が各地に樹立されることによって、ビザンティン建築は必然的に多様化することになるが、特に、ロマネスクやゴシックの影響を受けた建築が認められる。ラテン帝国の建築活動は著しく低かったので、これらは金角湾に居留したヴェネツィアやピサ、ガラタ地区のジェノヴァの人々による建築の影響を受けた可能性が指摘される。
[編集] 分裂の時代と再統一後の建築活動
ビザンティン諸公国のうち、最も活動的であったニカイア帝国は、多くの建築を建立したが、そのほとんどは現在には残っておらず確実なことは言えない。
ニカイア帝国と勢力を競ったエピロス専制侯国は、王室の活発な建築活動が認められ、洗練された建築物とは言えないものの、礼拝堂建築が数多く残る。アルタにはエピロス建築の傑作とされるパリゴリティサ聖堂があり、その近郊にはカト・パナギア聖堂(1231年)やブラケルネ修道院、トリカラにはポルタ・パナギア聖堂(1283年)がある。エピロス王室はシチリア島のホーエンシュタウフェン家やヴィルアルドゥアン家との婚姻関係があり、これらの建築には西欧風の特色が認められる。
トレビゾンド帝国には、首都レビゾンドに皇帝マヌエル1世によって建設されたハギア・ソフィア修道院のカトリコンが現存している。グルジア王国の影響をうけた平面構成が認められるが、グルジア王国とルーム・セルジューク朝に挟まれたこの帝国のその他の建築活動については、あまり研究されていない。
1261年のニカイア帝国にるコンスタンティノポリス奪回後、コンスタンティノポリスではビザンティン文化の最後の華が開花した。いわゆる「パレオロゴス朝ルネサンス」であるが、これが建築の分野に影響を及ぼしたとは言いづらい。この時期に建設された教会堂は、中期ビザンティン建築の伝統を墨守したものであって、初期ビザンティンの、ましてや古代ローマの伝統を復興させるようなものではない。コンスタンティノポリスでの建築活動は1261年から1330年ころまでのわずかな期間に認められるのみで、以後は完全に停滞した。
ミカエル8世の皇妃テオドラの開設したコンスタンティノ・リプス修道院南聖堂は1280年代の建立と思われ、既存の北聖堂を拡張するように建設された円蓋式バシリカに近い聖堂である。1310年に着工されたパナギア・パンマカリストス修道院付属礼拝堂は4円柱式の教会堂で、外観はほとんど立方体に近く、バルカン半島で認められる模様積みなどは認められない。これらの聖堂は、ほとんどが単純な矩形平面であり、外部のデザインを優先してドームを多くかつ高く設計しているため、内部空間には広がりがなく、井戸の底にいるかのような印象をうける。
1316年に起工したコーラ修道院は、政治家テオドロス・メトキテスによって既存の教会堂を改築したものである。建築的に見るべきものは何もないが、内部のフレスコ画は末期ビザンティン美術の傑作と言われ、西欧のルネサンスにつながる新しい展開を見せている。
パレオロゴ朝の皇子達が封じられたモレア専制侯国の首府が置かれ、ペロポネソス半島を実効支配したミストラ城塞都市は、現在では完全な廃墟であるが、末期ビザンティンの都市景観を最もよく遺している。
宮廷では周囲のフランク諸公国との婚姻関係もあったので、宮殿のように西欧風の要素が認められる。ミストラ宮殿は1250年頃から1350年頃、1400年頃、1460年頃の3期にわたって建設されたもので、尖頭アーチの窓、リブ・ヴォールトといった構造体のゴシック建築的要素が散見する。内部装飾が残っていないためはっきりとは言えないが、ビザンティン建築の伝統よりは、欧の影響の方がむしろ強い。
末期ビザンティン時代に建設された修道院としては、聖アタナシオスの創建したメテオラがある。最も古いイパパンティ修道院は1366年に建設され、1388年にはメテオラ最大となるメガロ・メテオロン(メタモルフォシス修道院)が建立された。東ローマ帝国滅亡後も、14世紀から18世紀にかけて、さらに5つの修道院が建設されている。
[編集] 末期ビザンティン建築の特徴
末期ビザンティン建築も建築的関心は修道院建築にあったが、そのほとんどは既存教会堂の増築・改築であった。この際、外部にナルテクス(廊下状の前室空間)か礼拝に供された通路状の建物が回され、ポーティコ(列柱のある玄関またはアーケード)付きの正面を形成することが多く、この形状はヴェネチアからもたらされたのではないかとの指摘がある。
ポーティコ付ファサードは、教会堂以上に住居建築に採用され、コンスタンティノポリスのポリフィロゲニトゥス宮殿(現テクフルサライ)にもこの形状が認められる。12世紀後期と考えられるこの宮殿は、3階建てでテオドシウス2世の城壁の間に建設され、中庭に面した北側と城壁に連続する南側にポーティコ付正面が認められる。
テッサロニキは、パレオロゴス朝初期に繁栄し始め、首都での停滞期の間も修道院に付随する建築活動が活発に行われた。そのため、末期のビザンティン建築を知る上で重要な建築物がいくつか残っている。1315年創建されたハギイ・アポストリ教会堂、同時代かそれより早い時期に建てられたと思われるハギア・エカテリニ教会堂は、三面がドームを頂く吹き放しのポーティコ状廊下で囲われ(現在では吹き放しではなく、ガラス戸が嵌め込まれている)、その四隅にドームを架けている。教会建築における、このような周歩廊の機能ははっきりせず、首都では墓所に使われたようであるが、テッサロニキではそのような機能は認められない。
1262年に東ローマ帝国に移譲されたミストラには、ミストラ型と呼ばれる教会堂が建設されている。パナギア・オディギトリア聖堂(アフェンディコ聖堂)はブロントシオン修道院の中央聖堂として使われ、その後ミストラに建設された教会の模範となった「ミストラ型」の最初のモデルで、1階は円蓋式バシリカ平面を持つが、2階は内接十字型平面を持つ特殊な形式である。13世紀にバシリカとして建設されたハギオス・ディミトリオス聖堂は、15世紀にミストラ型として改修された。
[編集] 特徴
ビザンティン建築は、ユスティニアヌス1世の時代における宮廷の建設事業によって急速に開花した。この時代の建築事情は、プロコピオスの『建築書(De aedificiis)』や現存する建築物、ハギア・ソフィア大聖堂やハギイ・セルギオス・ケ・バッコス聖堂、ハギア・イリニ聖堂などによって知られる。アーキトレーヴや柱頭に彫り込まれた植物装飾によって構造体からの独立性を強調するような、特徴的な細部のデザインもこの時代に確立されたものである。バシリカ型の教会堂では身廊と側廊を分離するために独立円柱が一定の役割を果たしていたが、ドームとバシリカのプランが融合されるに従って、構造体としての役割はピアにかわり、オーダーはそこに付け足された装飾の一部としてしか機能しなくなった。ギリシア起原であるにも関わらず、中期以降のビザンティン建築では、オーダーはほとんど消滅することになる。
[編集] ビザンティン建築の構成
すでに初期ビザンティン建築の項で説明した通り、初期キリスト教の礼拝空間は、主にローマ建築のバシリカを採用していた。バシリカにもいくつか種類があり、側廊を持ち木造屋根が架けられているもの(ラヴェンナのサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂や サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂などはその印象的な例である)、トランセプト(十字型の平面計画で、横に突き出した部分)を構成するもの(旧サン・ピエトロ大聖堂、ルーマニアのトロパエウム(6世紀)、ハギオス・デメトリオス聖堂が挙げられる)、トンネル・ヴォールトが架けられたもの(ビザンティン建築のバシリカ式としては最も一般的なもので、身廊部分を側廊より高められたトンネル・ヴォールトとする。 12世紀にいたるまで建設され続けた)などがある。
ハギア・ソフィア大聖堂やハギア・イリニ聖堂で試みられたような、バシリカとドームを融合する形式は古代ローマの世俗建築においてすでに確立されていたが、ビザンティン建築の歴史の中でそれに続く作例が確立されるのは6世紀頃である。
ドーム・バシリカあるいは円蓋式バシリカ(Domed Basilica)と呼ばれるこの形式は、トンネル・ヴォールトを架けた身廊中央部に、身廊幅と同じ直径のドームを頂く正方形か長方形平面の教会堂で、単廊式(身廊のみで構成されるもの)か3廊式(身廊とそれを取り囲む側廊から構成されるも)である。身廊部分が十字型のクロス・ドーム・バシリカ(Cross-Domed Basilica)と呼ばれるギリシア十字型に近いプランも見られる。この形式は5世紀末から9世紀までビザンティン建築で採用され、以降は建設されることがなくなったが、12世紀にリヴァイヴァルされ、似たような形式の教会堂が建設されることがあった。
代表的なものは721年頃に創建されたテッサロニキのアギア・ソフィア聖堂で、これはクロス・ドーム・バシリカの典型例でる。その他にニカイアのコイメシス聖堂(8世紀初頭)などがあり、また12世紀のリヴァイヴァルでは、コーラ修道院中央聖堂(12世紀初期)やコンスタンティノポリスのフリスト・アカタレプトス聖堂(12世紀中期)が挙げられる。
内接十字型教会堂(Cross-Inscribed,Cross-in-square)は中期ビザンティン時代に確立され、それまで標準的であったバシリカ型を駆逐し、最も標準的なプランとなった。ギリシア十字型の身廊・袖廊を内包する正方形平面で、中央部にペンデンティヴ・ドームを頂くか、あるいは鼓胴壁(ドームの下部構造で円筒形の部分)を支持する円柱またはピア(主柱)のあるドームを持つ。特に後者は4円柱式教会堂(Four-Column Church)と呼ばれる。
ペンデンティヴ・ドーム型は874年に建設されたスクリプーのコイメシス聖堂やマンガナのハギオス・ゲオルギウス聖堂(現せず)がある。4円柱式は、10世紀中期に建設れオシオス・ルカス修道院のテオトコス聖堂のほか、1028年に建設されたパナギアトン・ハルケオン聖堂、1100年建設されたキリスト・パンテポプテス修道院中央聖堂(現エスキ・イマレト・ジャミィ)、12世紀初期に建設されたパントクラトール修道院の南北両聖堂(現ゼイレク・キリッセ・ジャミィ)がある。また、ドナト・ブラマンテによるサン・ピエトロ大聖堂の最初の平面も、内接十字型である。
内接十字型は非常に集中性の高い性格のプランだが、これに方向性を持たせた形式も存在する。ミトラ型と呼ばるもので、ミストラで最初に発見された。これはバシリカと内接十字型の混成物で、最下部はバシリカであるようだが、その上部は内接十字型に見える。
スクィンチ式教会堂(Church on Squinches)は、中期ビザンティン時代に形成された平面形式で、内接十字型とならび、ビザンティン建築の主要な形式のひとつである。これは正方形平面の四隅に設けたスクィンチ(多角形の構造を正方形平面の上部に乗せるために斜めに置かれたアーチ)が形成する八角形平面の上に鼓胴壁付きのドームを架けたものを主屋とする教会堂形式である。東にアプス、西にナルテクスを構成する単純型と、南北に付属室のある複合型がある。 前者の形式として、1042年に建設されたネア・モニ修道院中央聖堂、1090年に建設されたキプロスのクリソストモス修道院中央聖堂がある。後者の代表的な例としては、11世紀初期に建設されたと推定されるオシオス・ルカス修道院中央聖堂、11世紀末と考えられるエレシウス(アテネ近郊)にあるダフニ修道院中央聖堂、ミストラのアギイ・テオドリ聖堂がある。
この他、多様なプランがビザンティン建築に認められる[11]が、全て教会堂に関してのものである。世俗建築がいかなる形式で、いかなる機能を有したものであったかは、初期の段階ではローマ建築とほとんど違いがないということ以外はわかっていない。これは、ビザンティンの俗建築がミストラ以外にはあまり残っていないことによるミストラの建築も多くはフランク人によって建設されたもので、これをビザンティンの世俗建築一般とみなすことは難しい。
[編集] 東ローマ帝国の都市
東ローマ帝国の多くの都市は、ローマ帝国の時代から継承されたものである。ローマ帝国の混乱によって、3世紀後半から4世紀にかけてローマ時代の都市は広範囲に衰退したが、5世紀から6世紀になると東ローマ帝国の勢力範囲内では経済が再生し、これに伴って建築活動も盛んになった。しかし、この時代の経済の活性化はローマ帝国最盛期の繁栄には及ばず、大局的には地方都市は徐々に衰退していったと言って良い。このような地方経済の低下は、地方都市の公共業務の担い手であった裕福市民層の減衰を招いた。中央政府の介入が増大したため、公共活動は中央官庁の官僚組織、あるいは教会組織に継承されたが、フォルムやクリアなどの大規模な公共建築物はビザンティン時代には建設されなくなった。
都市生活自体もローマ帝国の時代から変化しており、体育館や競技場の利用は著しく低下した。劇場は競技場よりは活用されたが、上演されるのは喜劇や卑猥な演目になったため、教会から度々禁止令が出され、やがて放棄されていった。ローマ都市の中心部にあった神殿は、キリスト教が国教になったために廃れ、392年にテオドシウス1世が異教崇拝の禁止を発した後、廃棄されるか破壊された。
このような変化に伴って、古代に建設された公共建築には徐々に住居が建て込まれるようになり、人口密度は高くなったが、公共スペースの喪失によって市街地は縮小した。異教の神殿は6世紀頃にキリスト教聖堂として使用されるようになったアテナイのパルテノン神殿やテッサロニキのロトンダ、ローマのパンテオンなどを除いて、石切り場、あるいは柱や彫刻などの転用材の集積場となった。
このような古代都市に比べ、東ローマ帝国の時代に新設された都市、あるいは古代の町村を拡張した都市は少ない。また、首都コンスタンティノポリスを除けば、ビザンティン時代の都市は、ローマ時代の都市よりもずっと小規模である。ほとんどがユスティニアヌス帝によって開都されたが、ユスティアナ・プリマ、セルギオポリス、ダラ、ゼノビアといった新設都市は、国境防衛のための軍事拠点であった。一般に、強固な城壁に囲まれた場所には兵舎が建設され、ローマの都市と同じくカルドとデクマヌスを軸とする規則正しい都市計画が採用されている。一般市民はその外側に生活の場をおく農民で、緊急時には城壁内に非難する生活であった。
東ローマ帝国は6世紀に衰退をはじめ、都市部の経済活動も完全に停滞した。サーサーン朝ペルシャとの戦乱に巻き込まれたアナトリアの都市は壊滅状態のまま国家統制から排除され、イスラム帝国が勃興してからはシリア、エジプトの海上拠点も制圧された。バルカン半島は北方からの侵入したブルガリア人とマジャール人に悩まされただけでなく、沿岸地域からはイスラム帝国に攻撃された。バルカン半島の都市は10世紀まで荒廃した状態にあり、住居は粗悪なものであったので、建物の平面ですら確認するのが困難である。このような緊張状態にあって、ローマ時代から続く都市も完全に要塞化し、城壁に囲まれた軍事拠点とそれを取り囲む一般住宅という中世都市のスタイルが一般化した。
[編集] 修道院での慈善施設
ローマ帝国では、公共業務は都市の有力市民層によって運営されていたが、都市の衰退とともに有力市民層も没落すると、それは教会によって維持されることになった。451年のカルケドン公会議において、主教が慈善施設の運営に責任を持つことが成文化されているように、4世紀から5世紀にかけて、各地方の主教は修道院内の慈善施設の建設・運営に積極的に関わっていた。544年にユスティニアヌス帝の発令した教会機関に対する法令には、教会内部に宿泊施設、救済施設、病院、孤児院、養老院の存在が確認され、主教は直轄地これらの施設が存在するように計らう責任を持っていた。また、これらの施設は設置する基準として運営能力を証明する必要性があったが、活動は慈善目的に限り、これを逸脱するような場合については、主教が運営に介入する権限を有していた。
しかし、このような制度は形骸化し、11世紀には私的な慈善施設に対する主教の権限は剥奪された。どの時点から主教の権限の低下がはじまったのかは資料が少ないため不明瞭であるが、中期ビザンティン時代に裕福層の寄進によって設立された修道院の慈善施設は、国家や教会権力から独立した事業として認識されている。皇帝が私的に設立した修道院ですら、皇帝自身の私有財産と見なされ、必要な収入が確保できるように資産管理が行われていた。皇帝ロマノス1世レカペノスの設立したミュレレオン修道院(病院施設が付随)やヨハネス2世コムネノスの設立したキリスト・パントクラトール修道院(病院施設・養老院・浴場が付随)がその代表的な例である。
ミュレレオン修道院は、920年から922年にロマノス1世によって既存建築物を増築して設立された、病院を含む女子修道院である。ロマノスの宮殿と呼ばれたこの修道院は、裁判資料においてはじめて皇帝の私有財産とされることが確認できる施設である。皇帝の亡骸は代々聖使徒聖堂に葬られていたが、これ以降は自らの創設した修道院を墓所とする皇帝も現れた。
キリスト・パントクラトール修道院は1118年から1124年にかけてヨハネス2世コムネノスによって建設された南側のパントクラトール聖堂と、1136年以前にコムネノス家の墓所として建設された中央部のハギオス・ミハイル聖堂、そして北側のエウレーサ聖堂の3つの聖堂から成るが、これに今日では残っていないコンスタンティノポリスの病人を収容する病院と養老施設が付属した複合建築物であった。パントクラトール修道院の病院は規模が大きく、またその運営を記した『規律書(ティピコン)』や当時の歴史家ニケタス・コニアテスの著作によってその実態を推測することができる。
パントクラトールの病院は、外科的治療、眼・腸などの疾患治療、女性患者の治療、その他の5部門に分かれ、専門の医師、助手、補助員、女性スタッフらが常駐するもので、50床のベッドが用意されていた。主に貧困層を対象にした医療機関だが、かなりの運営費用が割り当てられており、また今日の病院に匹敵するほどの高度な組織的運営が行われていたとする研究もある。しかし、今日では、医療施設・養老施設の建築物は失われている。
[編集] モルタルと煉瓦
ビザンティン建築の建築方法は、基本的にはローマ建築のものと大差ない。各地の建築工房において、粗石造と煉瓦造を交互に使用する工法が確立されていたため、時代の推移に関わらずビザンティン建築の施工は常に安定していたようである。大まかに、シリア、パレスティナ、アルメニアやグルジアなどの切り石構造と、その他の地域の煉瓦・粗石構造とに分けられる。
ビザンティン建築において最もポピュラーなのは後者で、長方形の石材を片枠として積み上げ、その内部にモルタルと粗石を流し込み、次いで煉瓦を5段程度積層し、さらに石材を積み上げモルタルを流し込むことを繰り返すことによって外壁を形成した。ほとんどの場合、外壁には漆喰やモルタルが塗られなかったため、この石材と煉瓦の交互の配列は水平方向の縞模様となって、ビザンティン建築の外部の色彩的な特徴となっている。この建築方法は、初期の時代から11世紀頃にいたるまで全く変化しておらず、建築工法による建築物の時代特定を困難なものにしている。
古代ローマで用いられたローマン・コンクリートは、ポッツォラーナによって均質な凝固性を示すが、ビザンティンで用いられるモルタルは焼石灰と砂によるもので、ローマン・コンクリートほどの耐久性を示していない。また、石灰によるモルタルは硬化した後に風雨にさらされると分解するため、構造体は石材などの外装を付与する必要性があった。さらに、壁の仕上げと一体化した煉瓦のモルタル目地は、建築コストを下げるために徐々に多量に用いられる傾向にあり、モルタル硬化時の乾燥収縮によって建築物の精度は低下した。
ハギア・ソフィア大聖堂のような大規模建築物にとっては、このような建物の歪みは致命的欠陥であり、事実、最初に架けられたドームは建築途中においてもすでに湾曲し、その結果、わずか20年で崩壊した。再建には、大聖堂そのものの建設と同程度の時間を要している。崩壊の原因はドームを支える支柱の傾斜が原因であったが、この垂直傾斜は今日でもそのまま遺っている(この強度不足は、バットレスを補強することによって解決されている)。
[編集] 建築の装飾
ビザンティン美術を参照。
[編集] 主要建築物
[編集] 前期ビザンティン建築
- ストゥディオス修道院のハギオス・ヨアンニス聖堂(イスタンブル 現イムラホール・ジャーミイ 450年頃完成)
- アヒロピイトス聖堂(テッサロニキ 5世紀中期)
- ハギオス・デメトリオス聖堂(テッサロニキ 5世紀中期)
- カラート・セマーン修道院建築群(カラート・セマーン 5世紀後期)
- サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂(ラヴェンナ 490年建設)
- サン・ヴィターレ聖堂(ラヴェンナ 526年起工・574年完成)
- アギイ・セルギオス・カイ・バッコス聖堂(イスタンブル 現キュチュック・アヤソフィア・ジャーミイ 527年から536年頃)
- ハギア・イリニ聖堂(イスタンブル 現アヤイリニ博物館 532年頃起工)
- ハギア・ソフィア大聖堂(イスタンブル 現アヤソフィア博物館 532年起工・537年完成)
- サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂(ラヴェンナ 534年頃起工)
- ハギア・エカテリニ修道院(シナイ山 548年起工・565年完成)
- カスル・イブン・ワルダン(シリア 561年起工・564年完成)
- 聖降誕聖堂(ベツレヘム 6世紀)
- システルナ・バシリカ(イスタンブル 現イェレバタン・サライ 6世紀)
- フィロクセノス貯水槽(イスタンブル 6世紀)
[編集] 暗黒時代
- スルブ・フリプシメ聖堂(エチミアジン 618年起工・630年完成)
- 本来名不詳 現グリーゴル聖堂(ズヴァルトノッツ 645年起工・660年完成)
- ハギア・ソフィア聖堂(テッサロニキ 8世紀末期)
- 本来名不詳 現ファティエ・ジャミイ(トリエ 8世紀末期)
[編集] 中期ビザンティン建築
- ハギオス・アンドレアス聖堂(ぺリステレ 871年完成)
- パナギア・クーベリディキ聖堂(カストリア 9世紀中期)
- アクシアルヒス聖堂(カストリア 9世紀)
- コイメシス聖堂(スクリプ 874年頃完成)
- コンスタンティノス・リプス修道院北聖堂(イスタンブル 現フェナリ・イサ・ジャミィ 907年完成)
- スルブ・ハツ聖堂(アクダマル島 915年起工・921年完成)
- ミュレレオン修道院中央聖堂(イスタンブル 現ボドルム・ジャミィ 920年頃完成 )
- オシオス・ルカス修道院テオトコス聖堂(フォキス 10世紀中期頃)
- ラヴラ修道院中央聖堂(アトス山 10世紀中期頃)
- ハギイ・アナルギリ聖堂(カストリア 10世紀末)
- アニ大聖堂(アニ 988年起工・1000年完成)
- パナギア・マヴリオティッサ聖堂(カストリア 1000年頃完成)
- パナギア・ハルケオン聖堂(テッサロニキ 1028年完成)
- ハギオス・ニコラオス・ティス・ステギス聖堂(キプロス島 11世紀完成)
- パナギア・アンゲロクティトス聖堂(キプロス島 11世紀完成)
- ネア・モニ修道院中央聖堂(キオス島 11世紀完成)
- ダフニ修道院中央聖堂(エレシウス 11世紀完成)
- カプニカレア聖堂(アテネ 11世紀完成)
- キリスト・ポンテポプテス修道院中央聖堂(イスタンブル 現エスキ・イマレト・ジャミィ 1100年頃完成)
- パントクラトール修道院(イスタンブル 現モッラー・ゼイレク・ジャミィ 1120頃起工・1136年頃完成)
- コーラ修道院中央聖堂(イスタンブル 現カーリエ美術館 12世紀前期頃)
- ハギア・ソフィア聖堂(モネンヴァシア 12世紀中期)
- パナギア・トゥ・アラコス聖堂(キプロス島 12世紀後期)
- ハギオス・エレフテリオス聖堂(アテネ 12世紀完成)
[編集] 末期ビザンティン建築
- ブラケルネ修道院中央聖堂(アルタ 13世紀初期に再整備)
- カト・パナギア修道院中央聖堂(アルタ 1250年頃起工・1270年頃完成)
- ハギア・ソフィア聖堂(トラブゾン 1250年頃完成)
- コンスタンティノス・リプス修道院南聖堂(イスタンブル 現フェナリ・イサ・ジャミィ 1282年頃)
- ポルタ・パナギア聖堂(トリカラ 1283年完成)
- パナギア・パリゴリティサ聖堂(アルタ 1282年起工・1289年完成)
- ハギオス・バシリオス聖堂(アルタ 13世紀)
- ハギイ・テオドリ聖堂(ミストラ 1290年から1295年頃完成)
- ハギオス・デメトリオス聖堂(ミストラ 13世紀後半)
- ハギオス・エウゲニオス聖堂(トラブゾン 13世紀末)
- ポリフィロゲニトゥス宮(イスタンブル 現テクフルサライ 13世紀末)
- パナギア・パンマカリストス付属礼拝堂(イスタンブル 1310年頃完成)
- ブロントシオン修道院パナギア・オディギトリア聖堂(ミストラ 1310年頃完成)
- ハギイ・アポストリ聖堂(テッサロニキ 1310年起工・1314年完成)
- コーラ修道院修復工事(イスタンブル 現カーリエ博物館 1316年起工・1321年完成)
- パナギア・ペリブレプトス聖堂(ミストラ 1350年から1375年頃完成)
- ネア・モニ修道院中央聖堂(テッサロニキ 現プロフィティス・イリアスと推定 1360年頃完成)
- ヴラタドン修道院(テッサロニキ 1360年頃完成)
- イパパンティ修道院中央聖堂(メテオラ 1366年完成)
- ハギオス・アタナシオス・トゥ・ムザキ聖堂(カストリア 1384年頃完成)
- メタモルフォシス修道院中央聖堂(メテオラ 1388年完成)
- パンタナッサ修道院中央聖堂(ミストラ 1428年完成)
[編集] 脚注
- ↑ 現在のサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂。伝承によれば312年に建設されたが、内外部は徹底的に改編されている。平面構成以外、創建当時の面影はほとんどない。
- ↑ 初期キリスト教建築のバシリカとしては、例えばローマでは次のものがある。サン・パオロ・フォリ・レ・ムーラ大聖堂(385年〜400年頃)、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(432年〜440年頃)、サンタ・マリア・イン・トランステヴィレ聖堂(4世紀)、サン・クレメンテ聖堂(4世紀)、サンタ・サビーナ聖堂(5世紀)。いずれも大規模な改装をされている。
- ↑ 現在はイスラム寺院キュチュック・アヤソフィア・ジャミィ。小さなアヤソフィアの意であり、ハギア・ソフィア大聖堂の先駆的建築物とされるが確証はない。
- ↑ 現存しない。しかし、一辺が50m四方の正方形平面を持つ巨大建築物で、平面規模はハギア・ソフィア大聖堂に匹敵する。11世紀には放棄されていたが、第四次十字軍によってさらに徹底的に略奪され、彫刻部材などはヴェネチアにもたらされた。代表的なものとしてピラストリ・アクリタニと呼ばれる柱材がある。
- ↑ 現存せず。コンスタンティノス9世によりハギア・ソフィア大聖堂に匹敵する教会堂として建設された。平面規模は23m×33mと大聖堂よりも小さいが、多額の費用を投入したにも関わらず皇帝の気にいらなかったため2度にわたって建設をやりなおし、国庫に打撃を与えた。
- ↑ 現在はイスラム寺院エスキ・イマレト・ジャミィ。
- ↑ 現在はイスラム寺院ゼイレク・キリッセ・ジャミィ。
- ↑ 現在はイスラム寺院ファナリ・イサ・ジャミィ。
- ↑ 現在はイスラム寺院ボドルム・ジャミィ。
- ↑ オスマン帝国の時代はイスラム寺院カーリエ・ジャミィ。現在は美術館として一般公開されている。
- ↑ 教会堂建築の主な平面形式としては、次のようなものがある。十字型:コンスタンティノポリスの聖使徒聖堂の形式で、ラテン十字またはギリシア十字平面を持ち、中央部とそれぞれの腕の部分にドームを頂く。エフェソスのハギオス・ヨアンニス・オ・テオロゴス聖堂、クレタ島ゴルテュナのハギオス・ティトゥス聖堂、ヴェネチアのサン・マルコ大聖堂がある。三葉型(トラコンチ)あるいは四葉型(テトラコンチ):アトス山の修道院群の中央聖堂に見られる形式。ラヴラ修道院のほか、ヴァトペディ修道院、イヴィロン修道院の中央聖堂において採用され、現在でも正教圏では広く普及している。
[編集] 参考文献
シリル・マンゴー著・飯田喜四郎訳『ビザンティン建築』(本の友社)
ジョン・ラウデン著・益田朋幸訳『初期キリスト教美術・ビザンティン美術』(岩波書店)
高橋榮一著『世界の美術36 ビザンティン美術』(朝日新聞社)
日高健一郎・谷水潤著『建築巡礼17 イスタンブール』(丸善)
香山壽夫・香山玲子著『建築巡礼42 イタリアの初期キリスト教聖堂』(丸善)
大月康弘著『帝国と慈善 ビザンツ』(創文社)
ニコラス・ぺヴスナー他著・鈴木博之監訳『世界建築辞典』(鹿島出版会)
益田朋幸著『ビザンティン』(山川出版社)