ハンガリー動乱
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ハンガリー動乱(ハンガリーどうらん)とは1956年にハンガリーで起きたソビエト連邦の権威と支配に対する民衆による自然発生的な反乱をさす。 反乱は直ちにソビエト軍により鎮圧されたが、その過程で数千人の市民が殺害され、25万人近くの人々が難民となり国外へ逃亡した。ハンガリーではハンガリー革命と呼称されている。
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概要
1956年10月23日、ハンガリーの人々は政府に対して蜂起した。彼らは多くの政府関係施設や区域を占拠し、自分たちで決めた政策や方針を実施しはじめた。ソビエト軍は1956年10月23日と停戦をはさんだ1956年11月1日の2回、このような反乱に対して介入した。1957年の1月にはソビエト連邦は新たなハンガリー政府を任命し、ハンガリー人による改革を止めようとした。政府や政策方針の急激な転換や共産主義イデオロギーによって人々が結びつけられた点、政治的な目標の達成のために軍事力を使う点からこの反乱は革命とも考えられている。
経緯
10月23日から11月3日
1956年10月23日、学生たちがブタペストをデモ行進し、多くの労働者たちもそれに加わった。抗議する人たちと秘密警察との間で衝突が始まったのは夜になってからだった。大衆に人気のあるナジ・イムレが急遽ハンガリー勤労者党によって首相に任命された。ブタペストのソビエト軍は戦闘状態にあったが、国の他の地域はとても平穏だった。ソビエト軍の司令官はしばしば革命派と停戦をした。いくつかの管区ではソビエト軍は革命の動きをうまく阻止した。ブタペストのソビエト軍も結局は戦闘を停止した。夜のうちに労働者評議会と国民評議会が組織された。労働者評議会は1905年のロシアと17年のソビエトで結成されたものと似ていた。国民評議会は労働者評議会と似ていたが、地理的な面で統治を行った。1945年や1949年の弾圧以来、再び政治的な政党が結成されたが、人々の大多数は社会主義を維持しようとする政党を支持した。教会の名士たちを含む多くの政治囚たちが釈放された。大衆はワルシャワ条約機構からの脱退をナジ政府に迫ったが、このことは再びソビエト連邦の介入を招くこととなった。
10月25日、ナジは戒厳令を取り下げる。街の人々の中には、ソビエト軍の戦車に近付き、兵士と話し合う者もいた。説得に応じたソビエト兵らは、ハンガリー人を戦車に載せ、国会前広場へと移動し約700人集まった。しかし、突然、発砲が始まった。国会前広場は血の海と化し約100人が死亡、約300人が負傷した。この事件については秘密警察の発砲が原因であるとの見解もある。
最も激しい戦闘はコルビン劇場のあるコルビン広場で起こった。民衆は火炎瓶を用いてソビエト軍部隊に抵抗した。ミシュコルツでは労働者によるストが起きブダペストでナジ首相と直談判をおこなっている。
10月27日夜には、アナスタス・ミコヤンの報告による彼とナジとの会談が行われ、その結果ソビエト軍の撤退が宣言された。
10月29日には警察、軍隊、市民による国民防衛隊が結成された。
10月30日。ハンガリー軍に統制を任せるべきとのミコヤン報告。ソビエト軍撤退が開始された。しかしこの動きに水をさす事件 が発生した。同日午前9時頃共産党ブダペスト地区本部で秘密警察隊員と民衆との間で衝突が始まった。建物から出る武器を持たない秘密警察隊員らが、次々と民衆により射殺され、その後も命乞いをしながら出てくる秘密警察隊員、勤労者党書記らが射殺されて遺体が街路樹に吊るされた。この事件を聞いたミコヤンは翌日10月31日に反ソビエト活動の活発化を報告している。
フルシチョフはチトー大統領との会談で軍時介入の可能性に言及し、ナジは中立を宣言したが、国連や西側諸国からの具体的支援はなかった。
11月4日以降
11月4日、新たなソビエト軍部隊が侵攻した。多くの兵士たちは中央アジアから連れてこられた読み書きのできない人かロシア語の話せない人だった。 彼らはベルリンにナチスの反乱を壊滅しに来たのだと信じていた。 またある者は1956年のスエズ戦争のエジプトでイギリスやフランスと戦っていると信じていた。10日に労働者評議会や学生、知識人たちが休戦を呼びかけるまで、ハンガリーの労働者階級はソビエト軍との戦闘で重要な役割を演じた。10日から12月19日の間、労働者評議会はソビエトの占領軍と直接交渉した。何人かの政治犯の釈放はできたが、ソビエト軍を撤退させることはできなかった。ソビエト連邦に支援されたカーダール・ヤーノシュが新しい共産主義政府を組織し、1956年以降ハンガリーを統治していくこととなった。散発的な武力抵抗やストライキは1957年の中頃まで続いた。ナジを含めた多くの人がカーダール政府によって処刑された。1960年代に発表されたCIAの推定によると、およそ1200人が処刑された。このとき逮捕された政治囚は1963年までにカーダール政府によってほとんどが釈放された。
動乱を支持したものの中には、その後亡命した者も多くいた。(ラカトシュ・イムレ、ヘッレル・アーグネシュ、リゲティ・ジェルジなど)
11月4日。ソビエト軍の戦車2500両、15万人の歩兵部隊がブダペストに到着。 国会を占拠、ナジはユーゴスラビア大使館に逃げ込んだが、捕まり、2年後に処刑。 ハンガリー側、死者17000人、難民20万人。ソビエト側、死者1900人。
原因
経済の崩壊と低水準が労働者の不満を引き起こした。それはサッカー場での暴動という形で現れていた。農民たちは政府の土地政策のせいで悲惨な状況にあった。独裁政党であるハンガリー勤労者党内の改革派とスターリン主義者たちは対立していた。ジャーナリストや文筆家は彼らの労働環境を改善しようとし、労働組合を結成していた。学生は大学の狭き門と学ぶ環境を改善しようとして、独立した学生の組織を設立していた。ソヴィエト共産党内部で行われたクルシュチェフの演説は、幹部たちに大きな議論を呼び起こした。ハンガリー勤労者党にはこのような事態を指導する力がないのを見て、人々は行動を起こした。
目的
- 農民は土地を所有して耕す権利を要求した。
- 労働者は生活環境の改善のために工場の自主管理と自由に労働組合を結成できる権利を要求した。
- 知識人たちは言論の自由を求めた。
- ほとんどのハンガリー人は、ソビエト軍の撤退、伝統的な民族のシンボルを使うこと、民主的な議会、カトリック教会の自由、法整備、社会主義の継続を望んだ。
革命の性質についての議論
このハンガリー革命の歴史的・政治的意味についてはいまも議論が続いている。革命の性質についての主要な見方を以下に列挙する。
- 資本主義経済を目指そうとした民族主義者による民主的な革命であった。この見方はアメリカで一般的である。
- 社会民主主義国家であるユーゴスラビアやスウェーデンのように改革しようとした社会主義者による民主的な革命であった。これは改革的な共産主義者や民主的な社会主義者において一般的な見方である。
- ハンガリー労働者評議会を基にした新しい構造の社会を作ろうとした自由主義的な社会主義者によるアナーキズム的な革命という見方。この見方は評議員の共産主義者やアナーキストに一般的である。
- かつてのホルティ・ミクローシュ政権のような軍事独裁的な政府と封建的な資本主義経済を復活させようとした聖職者やファシストによる試みだという考え方。これはソビエト連邦や中華人民共和国を含む社会主義陣営の共産党に一般的である。この見方は歴史的信憑性があまりないのだが、この傾向は革命について書かれた多くの文書で見受けられる。
- この革命の多様な様相やこれを記述する人の立場によって1つの見方にまとめることは難しい。また革命の期間が短かったので、その帰着するところを推測することも不可能である。
再評価
1989年にハンガリーの改革派は、このハンガリー動乱の評価を修正し復権させた。ハンガリー社会主義労働者党の自らの自己批判は、後の東欧革命への導火線となった。
- 1989年2月の総括文書「四十年間に関する報告」の中に「1956年10月の大衆蜂起」と動乱を武装大衆蜂起とする規定に定めた。反革命と言う表記を改め、「大衆の目からは、一種の民族独立運動」に転化したと指摘した。また、ソ連軍の第二次介入(11月)中にも社会主義の徹底的民主改革と革新への努力が力となり、それは動乱中にも存在し続けた。と記述している。結局、ナジ政権は、その努力にもかかわらず、情勢へのコントロールを失い、逆に情勢に押し潰されたと分析した。
- 1989年3月のナジの遺体発掘により、再評価は決定的となった。再埋葬式の式典に際し、党表明が載せられた。
ハンガリーはこの年を持って社会主義独裁を放棄した。それはナジの理想その物であり、冷戦の終結にも重要で計り知れない役割を演じた。ハンガリー政府は、自国の国民和解のみ為らず、西欧資本主義社会とも和解を演出した(鉄のカーテン撤去。汎ヨーロッパ・ピクニックへの協調)。1968年の「プラハの春」にも社会主義国家で唯一最初に正当に評価を下した。そして1989年10月23日、ハンガリーは一滴の血を流す事もなく社会主義を捨て、ハンガリー共和国を建国し、ヨーロッパへ回帰するのである。この日は、ハンガリー革命が起きたその日である。
関連項目
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