デイヴィッド・ヒューム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
デイヴィッド・ヒューム(David Hume、ユリウス暦1711年4月26日(グレゴリオ暦5月7日 )- 1776年8月25日)は、スコットランド・エディンバラ出身の経験論を代表する哲学者であり、歴史学者、政治思想家。スコットランド啓蒙の代表的存在とされる。ヒュームはそれ以前の哲学が自明としていた知の成立根拠を問い、人間本性がなにかについての知に達することが原理的に保証されていないと考える徹底的な懐疑論を打ち立てた。 主著は『人性論』。
後世のドイツ哲学のイマヌエル・カントは「ヒュームは哲学を独断論の浅瀬に乗り上げることから救ったが、懐疑論という別の浅瀬に座礁させた」と批評している。
[編集] 年譜
- 1711年 - 4月26日グレートブリテン王国のスコットランドエディンバラ(Edinburgh)近郊の別荘でジョーゼフ・ヒュームとキャサリンの次男として生まれる。兄のジョンと姉がいる
- 1713年 - 父死亡
- 1723年 - エディンバラ大学入学
- 1725年 - エディンバラ大学退学
- 1729年 - 精神を病む
- 1730年 - 冬精神状態、回復に向かう
- 1734年 - 2月末、ロンドンへ行き「医師への書簡」執筆。ブリストルにある商会で仕事。夏退職しフランスに行きパリを経てランスに行く
- 1735年 - 秋にラフレーシに行く。『人間本性論』を執筆
- 1736年 - ロンドンで『人性論』出版に努力
- 1739年 - 1月末『人性論』第1・2篇を出版
- 1740年 - 3月『人性論摘要』出版。11月『人性論』第3篇出版
- 1741年 - 『道徳政治論集』第1篇出版
- 1742年 - 『道徳政治論集』第2篇出版
- 1745年 - 4月、アナンディル侯爵の家庭教師となる。母キャサリン死亡
- 1746年 - 4月家庭教師を辞め、ロンドンに住む。5月セント=クレア中将の法務官としてブルターニュ遠征へ
- 1747年 - 帰国。2月、セント=クレア中将の副官として、ウイーン・トリノへの軍事使節団に。4月『人間知性についての哲学的試論』出版。年末にロンドンに戻る
- 1750年 - 『政治論集』("Political discourses")出版。この年頃アダム・スミスと会う
- 1751年 - 兄ジョンの結婚。エディンバラの家で姉と住む。12月『道徳原理研究』出版
- 1752年 - 2月、エディンバラ弁護士協会の図書館長。『政治経済論集』出版
- 1754年 - 秋『イングランド史』第1巻出版
- 1756年 - 年末『イングランド史』第2巻出版
- 1757年 - 1月図書館長辞任。2月『小論文四篇』(含宗教の自然史)出版
- 1759年 - 3月『イングランド史』第3・4巻出版。『人間知性研究』(『人間知性についての哲学的試論』の改題)出版
- 1762年 - 『イングランド史』第5・6巻出版。
- 1763年 - 6月ハートフォード卿コンウェイより、パリへ秘書官を薦められる。10月パリに行く。タランベール・ディドロと交流
- 1765年 - 7月コンウェイの正式の秘書官となり、代理大使。12月パリでジャン=ジャック・ルソーと出会う
- 1766年 - 1月ルソーとともに帰国。6月ルソーと絶交
- 1767年 - 2月、コンウェイ将軍(ハートフォード卿の弟)が北部担当の国務大臣。その次官に
- 1768年 - 1月次官辞任
- 1776年 - 1月遺言状を作る。4月「私の生涯」を書く。8月7日遺言状の補足を書く(『自然宗教をめぐる対話』の出版を甥に委託)。8月25日午後4時頃死去。8月29日エディンバラのカールトン-ヒル墓地に埋葬。
[編集] 参考文献
- 大槻晴彦編『世界の名著32 ロック、ヒューム』中公バックス、1980年