ダルフール紛争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ダルフール紛争はスーダン西部のダルフール地方で2006年現在も進行中のスーダン政府に支援されたアラブ人によるジャンジャウィードと呼ばれる民兵と地域の非アラブ人住民との間に起きている民族紛争である。 この紛争で2003年2月の衝突以降、2006年2月時点での概算で18万人が既に殺害され、現在進行中の民族浄化の事例として広く記述されている。2004年6月3日の国連事務総長の公式統括(bilan officiel)によれば、1956年の独立以来、1972年から1983年の11年間を除いて、200万人の死者、400万人の家を追われた者、60万人の難民が発生しているとされる(UN Doc.S/2004/453)。
目次 |
[編集] 紛争の起源
ダルフールは幾つかの民族が居住している地域で、大別するとフール人、マサリート、ザガワなどの非アラブ系の諸民族と、バッガーラと呼ばれる13世紀以降にこの地域に移住してきたアラブ人とで構成されている。いずれもムスリムであるが、両者の関係は長年緊張を伴うものだった。植民地化される前のフール王国はバッガーラ(正確に言うとリザイカート)としばしば衝突した。さらに20世紀までダルフールは奴隷交易の中心地でギニア湾岸やエジプトなど沿岸地域へ供給する奴隷を手に入れるため、バール・エル・ガザルの辺までフール人とアラブ人との奴隷主が競り合った。フール人やマサリートは定住農民であり、アラブ系やザガワは遊牧する牧畜民であったので、土地や水などの資源をめぐり、経済的な需要からも二つのグループに分かれて紛争が生じた。
1956年の独立以降、スーダン政府はアラブ化する傾向を強め、1958年からは軍事独裁政権であった。1962年にはムスリムの政府軍とほぼムスリムでないスーダン南部の非アラブ系の諸民族の間で内戦が起こり、1972年から1983年の停戦期間を除いて戦闘が2002年の休戦宣言まで続けられていた。2003年の和平協定では政府と南部の反政府グループとで国家の歳入(正確には石油収入)を分け合うことで合意した。
しかしこの合意はダルフール地方の活動家たちの非アラブ系民族の公正な扱いの要求を満たすものではなかった。2つの地域の反政府集団、正義と平等運動 (Jem, JEM) とスーダン解放運動/軍 (SLM/A) が政府による、アラブ人の要望に応じた非アラブ人への圧力を非難した。 ハッサン・アル=トゥラビはJemを支援しているとして非難され、2004年3月以降反乱に関与したと断定され投獄された(bbc)。トゥラビは関与を否定しているが、「事態を悪化させている」として政府を批判した。SLMは大凡フール人とマサリートとで、Jemはダルフール北部のザガワによって組織されている。
[編集] 紛争の経過
最近の衝突は2003年の初めにJemとSLMの反乱軍が政府軍とその施設を攻撃したことから始まった。不意を襲われたスーダン政府は、西部には少数の兵力しか配置されておらず、西部のスーダン政府軍が兵士の大半をダルフール出身者で構成されていたため、その部隊の多くが反乱軍に協力したのではないかと疑った。その反応は地域のアラブ人から募集され政府の支援により武装したアラブ系の民兵・ジャンジャウィードによる地上攻撃を空爆によって支援するという作戦へと反映され、実行された。紛争が政治的な意図に基づいていたため、それらの民兵などのエスニシティに基づいて攻撃対象とされた村には人種的な要素がみられ、牧羊者(大半がアラブ人)と農民(一般に非アラブ人)との水と土地に関する経済的な争いにも関係する要素がみられた。国連の監視チームはアラブ人の村が手つかずで残された一方、非アラブ人の村が選ばれていると報道した。
- 「(監視チームの二日間の幾つかのそのような地域の巡回の間に気付いた分で)シャッタヤ管区の23のフール人の村が略奪され、地面が見えるまで燃やされ、完全に無人化している。その一方で、焦げ付いた地域のすぐ傍でアラブ系の居住地は人が住み、燃やされず、機能した状態で残されて点在している。幾つかの地点ではフール人の村とアラブ人の村は500mも離れていなかった。」(2004年4月25日の国連組織間報告書より引用。)
2004年5月15日のエコノミスト誌によれば、ジャンジャウィードはさらに「多数のモスクにも放火し、破り捨てたクルアーンの紙切れの上で排便した。」といわれる。
双方が民間人に対する大量虐殺・略奪・強姦を含む人権侵害に関与したとして非難されている。しかしながら、直ちに優勢を得たのは武装で上回るジャンジャウィードの方だった。2004年の春までに(ほとんど非アラブ人口の)数千人が殺され、100万以上の人々が家を追われ、その結果地域に大きな人道上の危機が引き起こされた。10万人以上の難民がジャンジャウィードの民兵に追われ隣接するチャドに流れ込んだことでこの危機には国際的な要素も加わった。ジャンジャウィードはチャド国境に展開していたチャド軍の兵士と衝突し、4月の銃撃戦では民兵70人チャド兵10人以上が殺された。
独立系の監視者はユーゴスラビア戦争時の民族浄化よりも戦術が多様化していることに注目した上で、ダルフールの遠隔性により数十万人が効果的に援助から切り離されていると警告している。ブリュッセルに本拠を持つ国際危機グループは飢餓と疾病により35万人以上に死の危険性があると報道した。
アフリカ連合 (AU) とEUは2004年の7月5日時点で2004年4月8日に結ばれた停戦[1]の監視団を送っている。[2][3]
スーダン政府と反政府2派との和平交渉でスーダン政府によるジャンジャウィードの武装解除などの6項目の約束が守られていないとして、2004年7月17日反政府側が離脱を表明した。
2004年8月10日国連人道問題調整事務所はスーダン政府軍がヘリコプターによる空爆でジャンジャウィードと連携し新たな住民攻撃を行ったと報告した。
スーダンの政府の視点から見て「紛争は単に小競り合いだ」としている。スーダンの大統領オマル・ハッサン・アル=バシールは、「ダルフールに対する国際的な懸念は実際はスーダンがイスラム国家であることを標的にしている」と語った。スーダン政府は物資などの支援を求めながら、「東アフリカの国の内政問題に干渉しないように」英国およびアメリカに警告し、自らがどんな軍事援助も拒絶するだろうと語った。
2004年8月に、AUは、停戦監視団を保護するために150人のルワンダ共和国の部隊をダルフールに送った。しかし決定時には「それらの権限は、民間人の保護を含んでいなかった」。が、ルワンダ共和国の大統領ポール・カガメは、「もし民間人がそのとき危険な状態にあることが確証されれば、私たちの軍は確かに介在し民間人を保護する兵力を使用するだろう」と宣言した。だが、そのような努力には確実に150人を越える軍隊を必要とする。ルワンダ部隊は8月の終わりに150人のナイジェリアの部隊と合流した。
[編集] 国際的な反応と対応
切迫した災害の度合いは国連事務総長のコフィ・アナンによって「ぞっとさせられるぐらいに現実的な」ダルフールでの大量虐殺の危機として警告されるに至った。 ジャンジャウィードによる作戦の度合いも(スーダン政府によっては強く否定されるものの)ルワンダのジェノサイドと比較されるに至った。
2004年の7月初めアメリカ国務長官のコリン・パウエルはスーダンとダルフールを訪れ、スーダン政府にジャンジャウィードへの支援を止めるように説得した。アナンはこの訪問を「建設的だ」と評している。
AUのコナレ委員長は「紛争の正当化はできない」と警告し、AUとして停戦監視団とは別に非アラブ系住民の保護をも任務とした平和維持軍の派遣を一時検討したが、虐殺を否定するスーダン政府の同意を得られず、監視団の警護のみの役割の軍隊の派遣を決定した。
しかしアメリカはジャンジャウィードによる攻撃は止んでおらず、停戦合意が守られていないと警告している。[4]
2004年7月23日に、アメリカ上院および下院は、スーダンのダルフール地域の武力紛争をジェノサイドであると宣言し、それに終止符を打つ国際的な努力を結集するようにブッシュ政権に要求する両院合同決議を承認した。
しかしながら、国連自体およびブッシュ政権はダルフール紛争をジェノサイドであると考えていなかった。CNNによれば、コリン・パウエルは、より多くのダルフールからの報告書が状況がジェノサイドかどうか決めるために必要だったと語った。コフィ・アナンは紛争を「人道的に悲劇的な状況」と呼んだが、ジェノサイドあるいは民族浄化とまだ呼んでいない。BBCによれば、アナリストの推測では紛争の終結には少なくとも15,000人の兵士が必要であるが、どの国も兵士を送ろうとはしない。しかし、イギリス首相トニー・ブレアは軍事介入を除外しないとしている。英国の最高軍司令官マイク・ジャクソンはジャンジャウィードに対抗するためにイギリスがおよそ5000の兵士を集めることができると語った。そのときに、各国(特に米国)が行おうとしている可能な唯一の解決手段は制裁による脅しである。欧州連合は紛争が解決されない場合、スーダンに対し制裁で脅す際に米国に加わるであろうと発表した。
AU自体も軍事監視団を警護する300人の兵士を送りながら、紛争がジェノサイドであるとは信じられずにいた。
7月30日、国連安全保障理事会はジャンジャウィードを武装解除し正義をもたらすために、スーダンの政府に30日の期間を与えた。これはこの期限に達しない場合は制裁を考慮すべきという意図を示している。アラブ連盟はより長い期間を求めており、スーダンがもう一つのイラクになってはならないと警告した。
9月18日、国連安保理はアメリカのダンフォース国連大使などの提案による、スーダン政府に対し紛争防止の履行がない場合のAU監視部隊の拡大AUによる虐殺の査察および石油の禁輸などによる制裁を警告する決議案を賛成11、棄権4(アルジェリア、中国、ロシア、パキスタン)、反対0で可決した。中国、パキスタンはスーダンに石油権益を持つため難色を示していた。
2005年1月25日には、国連事務総長によって派遣されていた「国際調査委員会」の報告書が提出され、ジェノサイドの客観的要件(集団の組織的殺戮および大規模な破壊)は認めたものの、主観的要件(ジェノサイドの意図)によって行われたかを決定することが残され、スーダン政府の人道に対する罪は認めたものの、ジェノサイド罪は認定しなかった。
国際法上の犯罪を行った個人をいかに処罰するかについては、3月31日の安保理決議1593号により、事態は国際刑事裁判所の検察官に付託されることとなった。
[編集] 日本の関与
- 2005年5月、民主党の岡田克也代表(当時)がスーダンを訪問。ダルフール地方の難民キャンプを視察し、人道援助を行う考えを示した。その後、外務省は、人道上の問題で中断していたODAを再開する決定を行っている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- JEM(英語、ドイツ語、フランス語、アラビア語)
- スーダン・ダルフール危機情報wiki
- international crisis group (ICG)(英語)
- darfurinfo(英語)
- スーダン危機警告 アムネスティ・インターナショナルによる報告
- 国境なき医師団日本 ニュースリリース 国境なき医師団による報告
- UNHCR Japan - News 国連難民高等弁務官事務所ニュース速報
- Sudan Information Gateway 国連による情報提供