セント・マロ
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Saint Malo, セント・マロ は、ルイジアナ州、セントバーナード郡のボーニュ湖畔に存在していた小さな漁村、18世紀中期から20世紀初期にニューオリンズ・ハリケーン(1915年)で破壊されるまであった マニラガレオン貿易による、フィリピン人のアメリカ合衆国での最初の居住地であり、アジア人の初めての居住地としても考えられている
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[編集] 村の名前
セント・マロの名は、逃亡奴隷グループのリーダーに因む
1784年、Jean Saint Malo をリーダーとする逃亡奴隷グループはボーニュ湖の湿地帯へ逃げた
セント・マロはスペイン軍に捕まり、1784年6月19日にセント・ルイス・カテドラルの前(今のジャクソン・スクウェア)で絞首刑に処された
[編集] 起源
1763年にマニラガレオン貿易のスペイン船から逃亡したフィリピン人によって設立された
彼らはスペイン人居住地から遠い、ルイジアナ州の湿地帯に居住
この地域に住んだ人を Manilamen、後に Tagalas と呼んだ
彼らは100年以上に渡り自治で、ひっそりと暮らしていた
1883年にジャーナリスト ラフカディオ・ハーン によって彼らの存在がアメリカ人に知られることになった
[編集] 住居
ハーン の記録に依ると、
彼らは小さな家に住んでいたが、palmetto, パルメット(低木のヤシ)や、トウで編んだ家は過酷な自然環境に耐えられる物ではなかった。 湿地帯では強い材料が見つからなかった為、他のルイジアナの地域から船で運んで来た。湿地帯の蚊などの虫から守る為に全ての窓に網を張り、多くの鰐などの爬虫類や他の動物にも注意しなければならなかった。家具、テーブル、椅子、ベッドなどは無かった。 パイナップル科の植物、Spanish Moss をマットレスの様に使っていた。 ハーンの記録には、漁師は夜になると、小麦粉の樽、畳んだ帆、魚の薫製などの上で寝た。
[編集] 生活スタイル
[編集] 食物
魚:オイルと酢を付けて食べ、生魚を食べていても病気にはかからなかった
フィリピン人の主食である、米は稀に食べられた
[編集] 宗教
カトリック:近隣のニューオリンズから聖職者が訪ねていたとされるが、分かっていない
[編集] 行政
税制、警察は無く、独自のルールを持っていた。
論争が起こると、村の最長老の者が仲裁し、これに従わない者、或は問題を起す者は、“fish-car”と呼ばれる一時しのぎの牢獄に投獄された。 過酷で貧しい環境であった為に、問題を起こした者は通常判決に従った。 村はセントバーナード郡の行政区内だが、ルイジアナ政府役人や、税務署員が訪れたことは1度も無かった。
[編集] 家族
ハーン が訪れたときに、女性は基本的に住んでいなかった。 過酷で孤立した環境の為、家族を持つ者はニューオリンズなどの地域へ移住した
フィリピン人の女性が居なかった為、Manilamen はケイジャン、ネイティブ・アメリカンなどの女性と結婚した。 彼らの子どもはニューオリンズの学校に通った
[編集] 米英戦争時
Manilamen (村民)は米英戦争のニューオーリンズの戦い(1815年)に参加、フランスの海賊ジャン・ラフィットとともにアンドリュー・ジャクソン軍に加わった
1815年1月8日、Sir Edward M. Pakenham率いる、約8,000人のイギリス兵はニューオリンズを制圧しようとしていた。それに対しアンドリュージャクソン率いるアメリカ兵は約1,500人、 歴史家 Marina Espina によると、アメリカ軍は “通常の軍隊、市民軍、狙撃手、2連隊、ミシシッピ・デルタの海賊" によって構成されていた。この海賊に村民が含まれている、或は指していると思われる。: この海賊はボーニュ湖畔地域の "Spanish fishermen" ("スペイン系漁師") と説明されている。 当時スペイン語をその地域で話す人々は Manilamen だけであった為
[編集] その後, Legacy
セント・マロは最古のフィリピン人合衆国内居住地だが、その後他にも居住地が建てられた Manila Village, Barataria Bay は最大で最も有名であった
ルイジアナ以外にもフィリピン人はメキシコ各地に居住地を見つけた、彼らはスペイン語を話した為、アメリカ合衆国より容易に適応した
[編集] 文献
Marina Espina - Filipinos in Louisiana (A. F. Laborde & Sons, New Orleans, Louisiana, 1988)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
カテゴリ: アメリカ合衆国の歴史 | フィリピンの歴史 | ルイジアナ州の地理