ショーン・マイケルズ
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ショーン・マイケルズ | |
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プロフィール | |
リングネーム | ショーン・マイケルズ |
本名 | マイケル・ショーン・ヒッケンボトム |
ニックネーム | ハートブレイク・キッド (HBK) |
身長 | 186cm |
体重 | 102kg |
誕生日 | 1965年7月22日 |
出身地 | テキサス州 サンアントニオ |
所属 | WWE・RAW |
デビュー | 1984年9月8日 vsアート・クルーズ戦 |
ショーン・マイケルズ(Shawn Michaels、1965年7月22日 - )は、アメリカのプロレスラーである。
テキサス州サンアントニオ出身。1990年代を代表するWWEの最大のスーパースター。身長約186cm(6フィート1インチ)、体重約102kg(225ポンド)。本名はマイケル・ショーン・ヒッケンボトム(Michael Shawn Hickenbottom)。ハートブレイクキッド(The Heartbreak Kid、略してHBK)、ショーストッパー(The Showstopper)、セクシーボーイ(Sexy boy)、アイコン(The Icon)、メイン・イベンター(The Main Event)等数々の異名を持つ。WWEのRAW所属。
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[編集] 経歴
幼少時代からリック・フレアーに憧れ、高校在学時にプロレスラーになることを決意する。18歳の頃にホセ・ロザリオに師事し1984年9月8日にアート・クルーズ戦でデビュー。1985年セントラルステーツ地区においてマーティ・ジャネッティとタッグチームを結成し、セントラルステーツタッグ王座を獲得。その後ダラス地区などを転戦し、1986年にAWAへと移籍。AWAでは当初「アメリカン・エクスプレス」を名乗っていたが、商標権を侵害していたのですぐに「ミッドナイト・ロッカーズ」に変更となる。同年AWA世界タッグタイトルを獲得。その年にWWF(現在のWWE)と契約する。しかし同僚からの嫌がらせとナイトクラブでの乱闘事件が元でわずか2日で解雇される。尚これはWWEにおける最短契約記録と後にマイケルズは豪語している。その後、ミッドナイト・ロッカーズはAWAに戻り、再びAWA世界タッグタイトルを獲得。
1988年、チーム名を「ザ・ロッカーズ」に改め、再びWWEと契約を交わす。後のライバル"ヒットマン"ブレット・ハート率いる「ハート・ファウンデーション」などと抗争を繰り広げ次第に人気を高め、1992年、相棒のマーティ・ジャネッティと決別し、シングルプレイヤーとして売り出す。その年には初のシングルタイトルとなるインターコンチネンタルタイトルを獲得する。その後しばらくはかつての相棒マーティ・ジャネッティなどと抗争を繰りひろげるが、その頃はまだ中堅クラスという感は否めなかった。そんな状況を脱するきっかけは1994年のWrestleMania Xで訪れた。語り草になっているレイザー・ラモン(スコット・ホール)とのラダー・マッチである。結果的にマイケルズは敗れたものの、双方ともに実力を出し切ったこの試合を以ってマイケルズの名前は全米に広がり、また広く実力も知られるようになった。
1996年、WrestleMania XIIにおいてブレット・ハートとアイアンマン・マッチを行い、勝利。初のWWF世界ヘビー級タイトルを奪取する。しかしこの時の判定を巡りブレット・ハートは激怒し、マイケルズとの間に大きな遺恨を残すこととなる。
一方、名実ともに頂点の一人となったマイケルズはブレット・ハートの他にもマンカインド(ミック・フォーリー)、ジ・アンダーテイカー、ストーン・コールド・スティーブ・オースチンらと離合集散を繰り返し、WWFは大きな盛り上がりを迎えることとなる。そして1997年、ハンター・ハースト・ヘルムスリー(トリプルH)、チャイナらとD-generation Xを結成、ヒールへと転向し、再びブレット・ハートと激烈な抗争を繰り広げる。しかし結末は意外なところにあった。この年モントリオールで開催されたサバイバー・シリーズ(Survivor Series)でのWWF世界ヘビー級タイトルマッチの最中、マイケルズが対戦相手のブレット・ハートの必殺技のシャープ・シューターを繰り出した瞬間、突如としてマイケルズの勝ちが宣告された。様々な思惑が入り混じるこの試合は物議を醸した(後にこの話はモントリオール事件と呼ばれるようになり、映画『Wrestling with Shadows』でも取り扱われた)。1998年頃から、長年のハードな受身が災いし、持病の椎間板ヘルニアが悪化する。様々な治療やリハビリを試みるがこの時点では回復は困難と見られ、WrestleMania XIVでのストーン・コールド・スティーブ・オースチン戦を最後に引退する。
2002年、nWoの新メンバーとして衝撃の復帰を果たしたが、実生活での親友でもあるケビン・ナッシュの負傷に伴いnWoが崩壊。その後トリプルHとの抗争が勃発、激化しSummerSlam 2002でのトリプルH戦(団体未公認試合)でついにリングへの復帰を果たす。さらにSurvivor Series 2002でのエリミネーション・チェンバー・マッチで再びWWE世界ヘビー級タイトルを獲得。そして2003年にはWrestleMania XIXでクリス・ジェリコとの死闘を経て、完全復活を遂げる。
ことさら派手なパフォーマンスのみが強調されがちだが、抜群の身体能力と驚異的な受身技術を持ち、またブレット・ハートとの試合でも示したような、素晴らしいテクニックも持っている。さらに相手によって様々なファイトスタイルを選ぶことができる真のプロレスラーである。現在では身体能力は衰え、かつてのようなスピードや跳躍力をメインにした試合の組み立てはしないものの、年を重ねて磨きぬかれたレスリングテクニックと、大観衆をも魅了する華やかなパフォーマンスは他のスーパースターの追随を許さない、まさしくWWEの「生ける伝説」として、未だ団体の頂点に君臨し続けている。
2005年のRoyal Rumble 2005以降、SmackDown!所属のスーパースターであるカート・アングルとの抗争を開始し、WrestleMania 21の番組対抗戦で対決するも敗北。WrestleMania 21以降は一時復活したハルク・ホーガンとチームを組み、Backlash 2005までモハメド・ハッサン、デバリの嫌米チームと抗争。6月に行われたドラフトでカートがRAWへ移籍し、Vengeance 2005で再戦し雪辱を果たす。7月4日に開催されたRAWでのマイケルズ&ホーガンvsカート&クリス・マスターズ戦の試合終了後突如ホーガンにスイート・チン・ミュージックを浴びせヒールに転向。以降ホーガンとの抗争を開始する。SummerSlam 2005のメイン戦でホーガンとの対決には敗れたが、再びベビーとなった。秋からは同じくベビーターンしたリック・フレアーと組み、マスターズと抗争を開始。マスターズとの抗争を終え、USAネットワークに戻ったRAWでカートとのアイアンマンマッチを行った。その後SmackDown!との一連の抗争ではRAWの主将を勤め、Survivor Series 2005でRAW、SmackDown!の決着をつけるエリミネーションマッチでは敗れたものの、チームRAWが劣勢になってからチームSmackDown!のレイ・ミステリオ、JBLを倒す活躍を見せる。2006年からはブレットのDVD発売に絡んでビンス・マクマホン、シェイン・マクマホンと抗争。2月27日に開催されたRAWで、ビンスらの策略により睡眠薬入りのミネラルウォーターを飲まされ、リング上でビンスやシェインと対峙中に意識が朦朧となったところを、シェインに首根っこを掴まれビンスの尻にキスを無理矢理させられてしまう。Saturday Night Main Eventでシェインと、WrestleMania 22でビンスとの対決が決定した。Saturday Night Main Eventでのシェイン戦は、シェインがショーンに対してシャープ・シューターを出した瞬間にビンスがゴングを要請して試合が決着し、モントリオール事件を再現するかのようなシーンとなった。
[編集] 必殺技
- スウィート・チン・ミュージック(スーパーキック)
- ダイビング・エルボードロップ
- ラウンディング・ボディアタック
- リバース・アトミックドロップ
[編集] タイトル履歴
- WWF/WWE
- 世界ヘビー級王座:1回
- WWF世界ヘビー級王座:3回
- IC王座:1回
- ヨーロピアン王座:1回
- WWFタッグ王座:3回(&ディーゼル:2回)(&ストーン・コールド・スティーブ・オースチン:1回)
- 1995年、1996年ロイヤルランブル優勝
- AWA
- AWA世界タッグ王座:2回(&マーティ・ジャネッティ:2回)
- 北部タッグ王座:2回(&マーティ・ジャネッティ:2回)
- NWA
- NWA/セントラル・ステイツ・タッグ王座:1回(&マーティ・ジャネッティ:1回)
[編集] その他
- 1997年にはヨーロピアン王座の獲得によりWWE史上初のグランドスラム(IC王座、ライトヘビー級王座、ハードコア王座、欧州王座、WWEタッグ王座、WWE王座、世界ヘビー級王座の王座を獲得)を達成。
- 2005年秋に自伝「heartbreak&triumph」を発売。