ケビン・ミッチェル
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ケビン・ミッチェル(本名Kevin Darnell Mitchell , 1962年1月13日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンディエゴ出身の元プロ野球選手。右投げ右打ち。ポジションは外野手。アフリカ系米国人。トレードマークは金歯。
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[編集] 来歴・人物
1980年、ドラフト外で入団したニューヨーク・メッツのマイナー組織からプロ野球選手としてのキャリアをスタートさせ、1984年にメジャー初昇格。その後サンディエゴ・パドレスを経てサンフランシスコ・ジャイアンツ、シンシナティ・レッズなどでプレー。強打の外野手で、ベストシーズンはジャイアンツ時代の1989年。この年は47本塁打、125打点をマークし、ナ・リーグのMVP及び打点王に輝き、チームのワールドシリーズ進出に貢献した。
メジャーを代表するスラッガーの一人であったが、その後は故障もあって不本意な成績が続いていたが、レッズ時代の1994年にストライキによるシーズン途中での中断ながら打率.326、30本塁打をマークして復活。オフにフリーエージェントとなり移籍先を探していたが、1995年は推定年俸4億円以上を提示した日本の福岡ダイエーホークスでプレーすることになった。過去のMLBでの実績、前年のMLB実績では、日本でプレーした歴代の外国人選手の中で一番の大物である。
1995年は西武ライオンズとの開幕戦で初打席満塁本塁打を放つなど、当初はメジャー屈指のスラッガーに相応しい打棒をみせていたがほどなく故障が再発し、外野手としてプレーすることが難しくなったため指名打者へ回る。その後も回復が思わしくなく欠場が多かったため満足な成績を残せないままその年限りで解雇(解雇の理由については後述)となり米球界へ復帰した。その後はボストン・レッドソックスなど数球団を転々とし、1998年にメジャーリーガーとしてのキャリアを終えた。2001年には独立リーグのソノマ・カウンティクラッシャーズで、佐々木誠と同僚になっている。
尚、2001年に同じくダイエーでプレーしたトニー・ミッチェルは従兄弟にあたる。
[編集] メジャー通算成績
- 1223試合 1173安打 234本塁打 760打点 30盗塁 719三振 打率.284 13シーズン
[編集] 日本での通算成績
- 37試合 39安打 8本塁打 27打点 打率.300 1シーズン
[編集] タイトル・表彰
- ナ・リーグMVP、打点王(1989年)
[編集] エピソード
- メッツ時代は当時マイナーの監督だった現千葉ロッテマリーンズのボビー・バレンタイン監督と師弟関係にあった。
- 日本球界入りに関しては最初、西武にオファーがあり、西武が断ったためにダイエーに話が来たものといわれる。
- 身体に不調を訴えたため、それまでDHだった人気選手の山本和範が代役で左翼を守ったが、ミッチェル以上に動きが悪く、プレー中に故障してシーズンを棒に振ってしまった。元々球団関係者と折り合いの悪かった山本は1995年限りで解雇され、多くのダイエーファンを失望させた(詳しくは山本のエピソードを参照)。
- ナムコのファミコンソフト「プロ野球ファミリースタジアム」の「メジャーリーガーズ」(大リーグの主力選手をモデルにしたチーム)の「みつける」選手のモデルとされている。
[編集] ミッチェル問題
- 米国時代から問題行動の多い人物で知られ、野球以外の面でもマスコミに注目(批判)されるという「リスク」を承知で獲得しなければならない選手であった。
- 獲得にあたっては、王貞治監督をはじめとする現場からの要望があった。特に王監督が読売ジャイアンツ監督時代にメジャーを代表する投手であるデーブ・スチュワートの獲得を「トラブルメーカー」との評判から逸していたことを悔やんでいて、このことが原因のひとつであったとされる。
- ミッチェル獲得により、1994年にプレーしていたケビン・ライマー外野手又はブライアン・トラックスラー一塁手のどちらかが解雇されることになった。FAで内野手の石毛宏典を西武から獲得していたこともあってトラックスラーを解雇することが決定的であったが、トラックスラーはダイエー本社海外部の肝いりで獲得した選手であったため、簡単に解雇することができず、1995年の高知キャンプにも来日していた。
- 結局、一塁手として石毛または藤本博史を起用したい現場の意向からトラックスラーはキャンプ中に解雇された。当然親会社はメンツを潰される形となり、残留したライマーも満足な成績を残すことなくその年限りで解雇。
- 当時まだまだ資金面に余裕のあったダイエーは金にモノをいわせた補強ぶりが度々マスコミから批判されており、4億円以上を投じたミッチェル入団は当然格好の餌食とされることになった。
- シーズン開幕後は目を見張る働きを見せたミッチェルだったが、身体の不調を訴え、欠場することが多くなった。「仮病」や「医師の診断が出ない」などとマスコミに報じられたが、当時の球団幹部はミッチェルを庇護することもなく、それをむしろ助長するようなマスコミ対応に終始したため、むしろダイエー球団が「被害者」であるように報じられていた。
- このため、ミッチェルの名は「問題児」として世間に知られることになったが、ダイエー球団の対応が悪くなければこじれることのない問題でもあった。シーズン途中で病気療養を理由に一時帰国したが、このことは「無断帰国」と報じられた。
- ダイエーは1999年に高塚猛氏が要職につくまでは典型的な「事なかれ主義」の球団体質であり、またトラックスラーのように外国人獲得に親会社が介入してくるような球団であった。ミッチェルは現場主導で獲得した選手でもあり、黙っていても悪い噂が流れてくる事態を甘受することはできないものと思われる。
- 以上のことから、当時のダイエーはミッチェルのようなタイプの選手が実力を発揮できる条件下にはなかったといえる。王監督をはじめとする現場サイドの多くは来福して間もないため球団の実情を把握しておらず、球団側も親会社の意に反してミッチェル獲得、トラックスラー解雇を容認しておきながらいざトラブルが発生すると今度は「被害者」となってしまうような無責任な態度。これらのマイナス要因が積み重なってできた事態であり、ミッチェル個人の資質に帰せられる問題であるよりもむしろダイエー側の「自己責任」であるといえるだろう。