オート三輪
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オート三輪(オートさんりん)とは、タイヤが3個の貨物自動車である三輪トラックを指す、日本における俗称である。
軽便・安価で、悪路と過積載に強く、小回りの利く特性から、1930年代から1950年代に日本で隆盛を極めたが、より性能の勝る四輪トラックに取って代わられ、衰退した。
「オート三輪」の呼称は、オートバイの延長線上に案出されたことによる自然発生的なものである。通常、トラックないしその派生形の車両を指す語であり、当初から乗用車として設計された3輪式乗用車(例 ダイハツ・Beeや、富士自動車・フジキャビン、イギリスのリライアント、ボンドなど)については対象としない。
構成としては、前輪に一つ、後輪に二つのタイヤを持つものがほとんどである(ごく少数の一部外国製輸入車では逆に前輪に二つ、後輪に一つのタイヤを持つものがあった)。
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[編集] 日本における歴史
(ことに操向機構の)構造が簡易で、静止状態でも安定を保てる最低限のレイアウトである三輪自動車は、自動車の黎明期から存在していた。史上初の自動車と言われるキュニョーの蒸気自動車(1769)も、史上初のガソリン自動車の一台であるベンツ車(1888)も、共に前1輪の三輪車である。
その後、オートバイのメカニズムの援用によって軽便な三輪自動車が作られるようになった。この種の車両は20世紀初頭から世界各国で自然発生的に出現している。日本でもオート三輪は第一次世界大戦後に独自発生した存在であったが、当時の国情に合致したことから独特の発展を遂げ、世界的にも他に類を見ない形態に進化した。
日本の三輪自動車史における一つの特徴として、諸外国に見られた2座ないし3座以上の乗用車形三輪自動車がほとんど発達しなかったことが挙げられる。
ヨーロッパではこのような三輪形乗用車は、同クラスの簡易設計の四輪車とも併せて「サイクルカー」と言われ、1910年代~1920年代に隆盛を極めた(その後オースチン・セブンやシトロエン5CVに代表される「まともな」四輪大衆車の普及で駆逐される)。
しかし日本では乗用車そのものの普及が遅く、乗用車の大衆化が始まった時代には最初から四輪車が普及したこともあって、三輪乗用車は一般的なものとはならなかった。1950年前後に代用タクシーとしてオート三輪のシャーシ後部にキャビンを架装した例はあったが、あくまで代用品で、まともな乗用車とは言い難い。前1輪型の三輪車としてはほぼ唯一の本格的乗用車だったダイハツ・Bee(1951)は、十分な完成度を極めないまま量産を断念された(これは乗用車専用シャーシのリアエンジン車であり、一般にはオート三輪の範疇に入れられていない)。
[編集] 概説
[編集] 戦前
1918年頃、大阪で前2輪・後1輪で前方に荷台を持つ自転車式貨物車(フロントカー)に、アメリカ製のエンジンキットを装備したものが出現したのが最初と見られている。
しかし安定性や積載力を欠くため、ほどなく前1輪・後2輪のレイアウトに移行した。その初期には中小零細メーカーを中心に、多くのメーカーが製造していた。運転席の設計などは初期のものは自動二輪の応用部分が多く、ハンドルは二輪車と同様の棒型のものであった。エンジンは当初アメリカやイギリスのオートバイ用輸入単気筒エンジンが用いられ、シャーシもオートバイとリヤカーの折衷的なパイプフレームで、チェーンで後右片輪のみを駆動することで差動装置を省略していた。初期には後退ギアもなかった。
しかし、実用上の要請から改良が進み、差動装置・後退ギアの装備やシャフトドライブの採用、パイプフレームを止めて本格的なトラックとしての強度を持つプレスフレーム、チャンネルフレームへの移行、大排気量化や2気筒化など、1930年代中期には既にオートバイとは全く異なる機構を持った貨物車両に進化していた。
エンジンも、1928年のJACエンジン(日本自動車、のちの「くろがね工業」製)出現以来、発動機製造(のちのダイハツ工業)などが実用に足るエンジンを国産するようになり、輸入エンジンに完全に取って代わった。まもなく有力エンジンメーカーはオート三輪生産に乗り出し、大手メーカー主導の体制が確立された。中小事業者からの需要の高まりを背景に販売網も整備され、1930年代後半には「ダイハツ」「マツダ」「くろがね」の三大ブランドへの評価が定まっていた。
戦前、小排気量三輪車の運転免許は試験制ではなく許可制であったことで、その普及を促された一面がある。
戦時中はより大型の車両の生産が優先され、民需が主のオート三輪の生産はほとんど途絶えた。
[編集] 戦後
第二次世界大戦後、トラック生産が再開されるとオート三輪は一層の進歩を見せた。零細メーカーは戦時体制下の統制でほぼ淘汰されたが、戦前からの三大大手メーカーに加え、終戦で市場を失った航空機産業からの転入企業が多く参入し、新技術の導入と合わせて市場を活性化した。積載量も500kg程度だった戦前から、サイズや排気量の増大で著しく大型化し、1950年代に入ると1.5t~2t積みクラスも珍しくなくなった。
1947年以降運転台幌や前面窓の装備が始まり、1951年に開発された愛知機械「ヂャイアント・コンドル」は2灯ヘッドライトと丸型ハンドル(ステアリング)、水冷水平対向エンジンをベンチシート下に収納したクローズドボディを実現して、居住性の水準としては四輪トラックに並んだ。しかし他社がこの流れに本格的追随するのは1950年代中期以降である。
この時期までのエンジンは、軽量化やコストダウン、粗悪ガソリンへの適応性等の見地により、空冷単気筒ないしV型2気筒が主流であった。しかし、丸ハンドルの普及でサドル型の運転台が廃止されると、1950年代末期からマツダとダイハツは水冷4気筒を導入した。
1940年代~1950年代の日本におけるモータリゼーション黎明期には、簡易な輸送手段として隆盛を極めた。多くの業種で使われたが、同程度の大きさの四輪トラックよりも格段に小回りが利くことから、特に狭隘な林道での材木運搬では重宝されたといわれている。
しかし、自動車交通の高速化に伴い、転倒しやすく高速走行に不向きなことや居住性の悪さが敬遠されるようになる。さらにはメカニズムが高度になり、内外装のデラックス化が進むにつれ、四輪トラックとの価格差が縮小して、市場での競争力を欠くようになった。これでは敢えて三輪とする意義が薄くなってしまったのである。また1965年の三輪車運転免許の廃止も、オート三輪に対して不利に働いた。
この間、トヨタ自動車のSKB型トラック「トヨエース」(1954)に代表される廉価な四輪トラックとの競合に伴い、オート三輪業界にも、営業力に劣る準大手・中堅メーカーの撤退・転業や倒産が相次ぐようになる。オート三輪メーカーの多くは、四輪トラックを生産の主流に切り替えた。
1957年頃からダイハツ工業の「ミゼット」に代表される軽3輪トラックの短いブームがあったものの、1960年頃以降は、東洋工業(現マツダ)とダイハツの2大メーカーが生産を行うのみとなった。最終的には1972年にダイハツが、そして最後まで残った東洋工業も1974年に生産を中止し、市場から姿を消した。
オート三輪に関わる技術や制度などは、部分的には後にオートバイの一種である大型三輪車「トライク」に引き継がれることになった。
[編集] アジアでの展開
東アジアでは、インドのオート・リクシャーやタイのサムロ(トゥクトゥク)といった三輪タクシーが今も現役で用いられている。これらは1960年代以降に現地でノックダウン生産されるようになった日本製軽3輪トラックの系譜上にある存在である。
[編集] 主なメーカーと製品
[編集] 東洋工業
- マツダT2000
- マツダT1500
- マツダT600
- マツダK360