ウラジミール・グルビッチ
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男子 バレーボール | ||
銅 | 1996 | バレーボール |
金 | 2000 | バレーボール |
ウラジミール・グルビッチ(Vladimir Grbić、1970年12月14日 - )はセルビア・モンテネグロのバレーボール選手。ズレニャニン出身。ユーゴスラビア代表として出場した、1996年アトランタオリンピック銅メダリスト、2000年シドニーオリンピック金メダリスト。身長193cm、体重87kg。愛称はグルビッチ兄、兄さん、バーニャ。弟ニコラ・グルビッチはナショナルチーム代表セッター。
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[編集] 略歴
父ミロは1975年ヨーロッパ選手権・銅メダリストの元ナショナルチーム代表のバレーボール選手。厳格な父の指導の元、弟ニコラと共にバレーを学ぶ。1990年にユーゴスラビアバレーボールリーグ(現在クロアチア)のザグレブに入団し、国内で2シーズンプレーした後、1992年、国内の内戦、動乱を避けてイタリアへ渡り、セリエA1で技術を磨くと共に、ユーゴスラビア代表として多くの国際大会へ出場し、豊富な経験を積んで、世界的なエースへと成長した。彼のバレー人生において父親の影響は大きく、2004年アテネオリンピック後の代表引退は、父親の理解と承諾を得た上での決断であった。2006年ワールドリーグで再び代表候補となった。
体格には恵まれないものの、本来は高い打点から放つ破壊力溢れるパワフルなスパイクと、強烈なジャンプサーブを武器とするエースである。2001年膝の手術以降、ジャンプ力が低下してからは、積極的にフェイントやフローターサーブなどを取り入れ、軟硬と緩急を織り交ぜたベテランらしい上手さ、器用さを持ち味としたプレーを見せている。また攻撃面だけでなく、守備面の要でもある。
ブラジル、イタリア、ギリシャ、ロシアなど各国のプロバレーボールリーグでプレー経験があり、イタリア語、英語、ロシア語に堪能である。1996年セリエA1・クネオ在籍時には主要なクラブチームの大会を制し、2000年セリエA1・ローマ在籍時にはスクデットを獲得した。2001-2002シーズンは日本の堺ブレイザーズに所属し、1年間Vリーグでプレーしたが、膝の故障により期待されたほどの活躍はできなかった。2006年現在はセリエA1・ラティーナに所属している。
2000年シドニーオリンピック決勝では、対戦相手ロシアから2セットを先取、金メダルに王手をかけた第3セットで、強烈に弾かれたボールをカメラ席へ飛び込んで執念のレシーブをし、その数秒後にはコートへ戻り、ロシアの強打を気迫のブロックで見事シャットアウトするという、超ファインプレーを見せた。祖国の内戦、NATO軍の空爆、国際大会への制裁など、様々な苦難を乗り越えて獲得した、ユーゴスラビア悲願の金メダルであった。また、2001年ヨーロッパ選手権でも金メダルを獲得し、同年ユーゴスラビアはFIVB世界ランキング1位となり、名実共に世界男子バレーの頂点に立った。
セルビア・モンテネグロ代表として出場した、2004年アテネオリンピックでは、チームの主砲である世界一のスーパーエース、イバン・ミリュコビッチを体調不良で欠き、準々決勝で前大会決勝で対戦したロシアに1-3で敗れ、3大会連続のオリンピックメダル獲得を逃した。
[編集] 人物・エピソード
- 端正な容姿で明るく気さくな人柄であるが、プレーに熱中するあまり、激情に駆られて気性の荒さを露呈することがある。20代の頃は、試合中コート上で獣のように吠え、自らを叱咤し、チームメイトに対しても猛烈な喝を入れる光景が珍しくなく見受けられた。しかしその凄まじい気迫と貪欲なまでの勝利への執念が、若きチームメイトの心技体を鍛え、著しく成長させたとも言える。彼の存在は長年に渡ってチームの精神的な支えとなっている。
- シドニーオリンピックの金メダル獲得後、弟ニコラと涙で抱き合って喜びを分かち合ったが、その後、嬉しさ余ってユニフォームを脱ぎ捨てて、下着一枚の姿になり、祖国の国旗を裸体に巻きつけるというパフォーマンスを見せた。
- 2002年世界選手権予選第一ラウンドでユーゴスラビアと日本が対戦した際、解説者の中田久美に、「お兄さんに関しては(Vリーグでの)データがバッチリあるし、一時期より力が落ちているから、日本はカモにできる」と不名誉なことを言われていた。しかし結果はユーゴスラビアが3-0で日本にストレート勝ちした。
- ナショナルチームに弟ニコラがいる為、試合の実況ではグルビッチ兄、グルビッチ弟と区別されることが多い。ニコラは受賞歴が多く、かつてはヨーロッパNo.1セッター、世界一のセッターと言われた実力派で、セリエAでは皇帝と呼ばれる大物である。
- 妻サラはヨーロッパの大会で3位入賞経験のある空手選手。周りからは恐妻と評されるが、試合観戦に来た妻と人目もはばからず、アツアツのキスを披露するなど、実際は非常に仲の良いおしどり夫婦である。娘が2人いる。
- 20代の頃、一ヶ月100円の極貧生活を体験したことがある。
- 趣味は釣りで、時間があれば一日中釣竿を握っていたいほどの無類の釣り好き。
[編集] 球歴
[編集] ナショナルチーム代表歴
- オリンピック
- 1996年(銅メダル)、2000年(金メダル)、2004年(5位)
- ワールドカップ
- 2003年(銅メダル)
- 世界選手権
- 1998年(銀メダル)、2002年(4位)
- ワールドグランドチャンピオンズカップ
- 2001年(銅メダル)
- ワールドリーグ
- 2003年(銀メダル)、2002年、2004年(銅メダル)
- 2000年、2001年(4位)、1998年(6位)、1997年(7位)
- ヨーロッパ選手権
- 2001年(金メダル)、1997年(銀メダル)、1995年、1999年(銅メダル)、2003年(4位)
[編集] クラブチーム優勝歴
- スクデット(セリエA1)- 2000年
- コッパ・イタリア - 1996年
- スーパーコッパ・イタリア - 1996年
- CEVカップ - 1994年、1996年
- 欧州スーパーカップ - 1996年
- トップチームズカップ - 1997年
[編集] 所属チーム
- 1990-1991年 ユーゴスラビア・Mladost ザグレブ
- 1991-1992年 ユーゴスラビア・ヴォイヴォディナ・ノヴィサド
- 1992-1995年 イタリアセリエA1・パドヴァ
- 1995-1997年 イタリアセリエA1・クネオ
- 1997-1998年 ブラジルスーパーリーグ・サンパウロ
- 1998-2001年 イタリアセリエA1・ローマ
- 2001-2002年 日本Vリーグ・堺ブレイザーズ
- 2002-2003年 ギリシャリーグ・ディビジョンA・PAOK
- 2003-2004年 ロシアスーパーリーグ・ディナモ・モスクワ
- 2004-2007年 イタリアセリエA1・ラティーナ