雄略天皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
雄略天皇(ゆうりゃくてんのう、允恭天皇7年(418年)12月 - 雄略天皇23年8月7日(479年9月8日))は、第21代の天皇(在位:安康天皇3年(456年)11月13日 - 雄略天皇23年(479年)8月7日)。大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)、大長谷若建命・大長谷王(古事記)。大悪天皇・有徳天皇とも。また、『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武に比定されている。
倭王武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されており、熊本県玉名郡の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘や埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金象嵌鉄剣銘に「獲加多支鹵大王」と記載されていたことはこれを裏付ける。朝廷としての組織はまだ未熟であったが、『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、古代の人々の間には雄略朝が歴史的な画期として捉えていた感覚が窺われる。
目次 |
[編集] 系譜
允恭天皇の第5皇子。母は忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)。安康天皇の同母弟。
- 皇后:草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ。仁徳天皇の皇女)
- 妃:葛城韓媛(かつらぎのからひめ。葛城円大臣の女)
- 妃:吉備稚媛(きびのわかひめ。吉備上道臣の女)
- 磐城皇子(いわきのみこ)
- 星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)
- 妃:和珥童女君(わにのわらわきみ。春日和珥臣深目の女)
[編集] 皇居
都は泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)。稲荷山古墳出土金象嵌鉄剣銘に見える「斯鬼宮(しきのみや ・磯城宮)」も朝倉宮を指すと言われる(別に河内の志紀(大阪府八尾市)とする説もある)。伝承地は奈良県桜井市黒崎(一説に岩坂)だが、1984年、同市脇本にある脇本遺跡から、5世紀後半のものと推定される掘立柱穴が発見され、朝倉宮の跡かと話題を呼んだ。これ以降一定期間、初瀬に皇居があったと唱える人もいる。尚、『日本霊異記』によれば、磐余宮(いわれのみや)にも居たという。
[編集] 略歴
安康天皇3年(456年)8月、安康天皇が眉輪王(まよわのおおきみ)により暗殺された。これを知った大泊瀬皇子は兄たちを疑い、まず八釣白彦皇子を斬り殺し、次いで坂合黒彦皇子 ・眉輪王をも殺そうとした。この2人は相談して円大臣(つぶらのおおおみ)宅に逃げ込んだが、大臣の助命嘆願も空しく、大泊瀬皇子は3人共に焼き殺してしまう。さらに、市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ、仁賢天皇 ・顕宗天皇の父)とその弟の御馬皇子(みまのみこ)をも謀殺し、政敵を一掃して11月に大王の座に就いた(即位後も誤って人を処刑することが多かったといい、後に大悪天皇と誹謗される原因となっている)。
平群真鳥を大臣に、大伴室屋・物部目(もののべのめ)を大連(おおむらじ)に任じて、軍事力で専制王権を確立した大泊瀬幼武大王(雄略天皇)の次の狙いは、連合的に結び付いていた地域国家を大和政権に臣従させることであった。特に最大の地域政権吉備に対して反乱鎮圧の名目で屈服を迫った(吉備氏の乱)。具体的には、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや ・463年)や吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ ・463年)の「反乱」を討伐して吉備政権の弱体化を進め、さらに雄略天皇の崩後に起こった星川皇子(母が吉備稚媛)の乱を大伴室屋らが鎮圧して(479年)、大和政権の優位を決定的にした。『日本書紀』には他に、播磨の文石小麻呂(あやしのおまろ・469年)や伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ・474年)を討伐した記事が見えている。
対外関係では、雄略天皇8年2月(464年)に日本府軍が高句麗を破り、9年5月には新羅に攻め込んだ。新羅を撃破し続けたが、将軍の紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)が死に、指揮系統の内乱ために退却した(『三国史記』新羅本紀によれば倭人が462年5月に新羅の活開城を攻め落とし、463年2月にも侵入している。こちらは新羅が打ち破ったと記載されている)。20年(476年)に高句麗が百済を攻め滅ぼしたが、翌21年(477年)、大王は百済に任那を与えて復興したという(『三国史記』高句麗本紀・百済本紀によれば、475年9月に高句麗に都を攻め落とされ王は殺され、同年熊津に遷都している)。この他、呉国(宋)から手工業者・漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)らを招き、また、分散していた秦民(秦氏の民)の統率を強化して、養蚕業を奨励したことも知られる。479年4月、百済の三斤王が亡くなると、入質していた昆支王の次子未多王に筑紫の兵500をつけて帰国させ、東城王として即位させた。兵を率いた安致臣・馬飼臣らは水軍を率いて高句麗を討った。
22年(478年)白髪皇子を皇太子とし、翌23年(479年)8月、大王は病気のため崩御した。
[編集] 陵墓・霊廟
丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)に葬られた。大阪府羽曳野市島泉にある高鷲丸山古墳(円墳・径76m)&平塚古墳(方墳・辺50m)に比定されている。近年一部の考古学者が、同県松原市西大塚と羽曳野市南恵我之荘に亘る河内大塚山古墳(前方後円墳・全長335m)とする説があるが、陵墓参考地のために詳細な調査がなされておらず不明確な点があるものの、埴輪の存在が明らかでないなどの特徴から、前方後円墳終末期のものであるとの説が強く、そうすると雄略の崩年と築造年代に数十年の開きがあり妥当なものではない。
『古事記』によると、顕宗天皇の父(市辺押磐皇子)の仇討ちをすべく、意祁命(後の仁賢天皇)自ら雄略天皇陵の墳丘の一部を小規模ながら破壊した、とある。『書紀』にも顕宗が陵破壊を提案したとあるが、皇太子億計がこれを諌めて思い止まらせたとする。
[編集] その他
- 伊勢神宮外宮を建立。
- 『古事記』では、即位前の雄略天皇に対して、大長谷王(おおはつせのみこ)という表記がたびたび見られる。通常、即位前の天皇に命(みこと)の称号を用いる『古事記』に於いて、王(みこ)の称号が用いられているのは、異例。
[編集] 御製歌
- 籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岳に 菜摘ます児 家聞かん 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ 我こそは 告らめ 家をも名をも -『万葉集』巻第一より-
- 美しい籠をもち、美しい篦を手に、この丘で菜を摘む娘よ、そなたはどこの家の娘か 名はなんというのか この大和の国を、隅々まで治めている、全てを支配しているこの私から、名をも家をも名乗ろう
- 夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は こよひは鳴かず 寝ねにけらしも -『万葉集』巻第九より-
- 夕方になると、いつも小倉山で鳴く鹿が、今夜は鳴かない。もう寝てしまったらしいよ。 ※舒明天皇作とも。
[編集] 関連項目
歴代天皇一覧 | |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 神武 | 2 綏靖 | 3 安寧 | 4 懿徳 | 5 孝昭 | 6 孝安 | 7 孝霊 | 8 孝元 | 9 開化 | 10 崇神 |
11 垂仁 | 12 景行 | 13 成務 | 14 仲哀 | 15 応神 | 16 仁徳 | 17 履中 | 18 反正 | 19 允恭 | 20 安康 |
21 雄略 | 22 清寧 | 23 顕宗 | 24 仁賢 | 25 武烈 | 26 継体 | 27 安閑 | 28 宣化 | 29 欽明 | 30 敏達 |
31 用明 | 32 崇峻 | 33 推古 | 34 舒明 | 35 皇極 | 36 孝徳 | 37 斉明 | 38 天智 | 39 弘文 | 40 天武 |
41 持統 | 42 文武 | 43 元明 | 44 元正 | 45 聖武 | 46 孝謙 | 47 淳仁 | 48 称徳 | 49 光仁 | 50 桓武 |
51 平城 | 52 嵯峨 | 53 淳和 | 54 仁明 | 55 文徳 | 56 清和 | 57 陽成 | 58 光孝 | 59 宇多 | 60 醍醐 |
61 朱雀 | 62 村上 | 63 冷泉 | 64 円融 | 65 花山 | 66 一条 | 67 三条 | 68 後一条 | 69 後朱雀 | 70 後冷泉 |
71 後三条 | 72 白河 | 73 堀河 | 74 鳥羽 | 75 崇徳 | 76 近衛 | 77 後白河 | 78 二条 | 79 六条 | 80 高倉 |
81 安徳 | 82 後鳥羽 | 83 土御門 | 84 順徳 | 85 仲恭 | 86 後堀河 | 87 四条 | 88 後嵯峨 | 89 後深草 | 90 亀山 |
91 後宇多 | 92 伏見 | 93 後伏見 | 94 後二条 | 95 花園 | 96 後醍醐 | 97 後村上 | 98 長慶 | 99 後亀山 | 100 後小松 |
北朝 | 1 光厳 | 2 光明 | 3 崇光 | 4 後光厳 | 5 後円融 | 6 後小松 | |||
101 称光 | 102 後花園 | 103 後土御門 | 104 後柏原 | 105 後奈良 | 106 正親町 | 107 後陽成 | 108 後水尾 | 109 明正 | 110 後光明 |
111 後西 | 112 霊元 | 113 東山 | 114 中御門 | 115 桜町 | 116 桃園 | 117 後桜町 | 118 後桃園 | 119 光格 | 120 仁孝 |
121 孝明 | 122 明治 | 123 大正 | 124 昭和 | 125 今上 | ※赤字は女性天皇 |