文徳天皇
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文徳天皇(もんとくてんのう、天長4年(827年) - 天安2年(858年)8月27日、在位:嘉祥3年(850年)3月21日 - 天安2年(858年)8月27日)は第55代天皇。諱は道康(みちやす)。
目次 |
[編集] 系譜
[編集] 系図
─(54)仁明天皇┬(55)文徳天皇┬(56)清和天皇┬(57)陽成天皇─元良親王 │ └惟喬親王 └貞純親王─(源)経基〔清和源氏へ〕 ├(58)光孝天皇─(59)宇多天皇┬(60)醍醐天皇─────────→ │ ├真寂法親王(斉世親王) │ └敦実親王─(源)雅信〔宇多源氏へ〕 └人康親王─操子女王(藤原基経妻)
[編集] 略歴
承和9年(842年)、承和の変で皇太子恒貞親王が廃されると代わりに立太子し、嘉祥3年(850年)、仁明天皇の崩御に伴い即位。
この天皇の治世中に藤原良房が権勢を強め、娘明子(あきらけいこ)を天皇に嫁がせ惟仁(これひと)親王(清和天皇)を産ませた。天皇は愛姫紀静子所生の第一皇子惟喬親王に期待したが、良房の圧力で惟仁を皇太子とせざるを得なかった。
だが、その後も天皇と良房の暗闘は続き、良房の圧力の前に在位中には内裏の外れにある東宮や嵯峨上皇の離宮だった冷然院などに居住して、遂に一度も内裏正殿を居住の間として生活を送ることはなかったという。やがて、天皇は惟喬親王の立太子を条件に惟仁親王への譲位を図るが、惟喬親王の身に危機が及ぶ事を恐れた左大臣源信の諫言で取り止めとなった。
かかる状況下で759年に突然の病で急死する。彦由一太は余りの病状の急変から藤原良房による暗殺説を唱えている。
[編集] 后妃
ほか多数
[編集] 皇子女
ほか多数
[編集] 在位中の元号
[編集] 諡号・追号・異名
御陵の在所によって別名を「田邑帝」(田村帝)ともいう。
[編集] 陵墓・霊廟
陵墓は京都市右京区太秦三尾町にある田邑陵(たむらのみささぎ)。
歴代天皇一覧 | |||||||||
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1 神武 | 2 綏靖 | 3 安寧 | 4 懿徳 | 5 孝昭 | 6 孝安 | 7 孝霊 | 8 孝元 | 9 開化 | 10 崇神 |
11 垂仁 | 12 景行 | 13 成務 | 14 仲哀 | 15 応神 | 16 仁徳 | 17 履中 | 18 反正 | 19 允恭 | 20 安康 |
21 雄略 | 22 清寧 | 23 顕宗 | 24 仁賢 | 25 武烈 | 26 継体 | 27 安閑 | 28 宣化 | 29 欽明 | 30 敏達 |
31 用明 | 32 崇峻 | 33 推古 | 34 舒明 | 35 皇極 | 36 孝徳 | 37 斉明 | 38 天智 | 39 弘文 | 40 天武 |
41 持統 | 42 文武 | 43 元明 | 44 元正 | 45 聖武 | 46 孝謙 | 47 淳仁 | 48 称徳 | 49 光仁 | 50 桓武 |
51 平城 | 52 嵯峨 | 53 淳和 | 54 仁明 | 55 文徳 | 56 清和 | 57 陽成 | 58 光孝 | 59 宇多 | 60 醍醐 |
61 朱雀 | 62 村上 | 63 冷泉 | 64 円融 | 65 花山 | 66 一条 | 67 三条 | 68 後一条 | 69 後朱雀 | 70 後冷泉 |
71 後三条 | 72 白河 | 73 堀河 | 74 鳥羽 | 75 崇徳 | 76 近衛 | 77 後白河 | 78 二条 | 79 六条 | 80 高倉 |
81 安徳 | 82 後鳥羽 | 83 土御門 | 84 順徳 | 85 仲恭 | 86 後堀河 | 87 四条 | 88 後嵯峨 | 89 後深草 | 90 亀山 |
91 後宇多 | 92 伏見 | 93 後伏見 | 94 後二条 | 95 花園 | 96 後醍醐 | 97 後村上 | 98 長慶 | 99 後亀山 | 100 後小松 |
北朝 | 1 光厳 | 2 光明 | 3 崇光 | 4 後光厳 | 5 後円融 | 6 後小松 | |||
101 称光 | 102 後花園 | 103 後土御門 | 104 後柏原 | 105 後奈良 | 106 正親町 | 107 後陽成 | 108 後水尾 | 109 明正 | 110 後光明 |
111 後西 | 112 霊元 | 113 東山 | 114 中御門 | 115 桜町 | 116 桃園 | 117 後桜町 | 118 後桃園 | 119 光格 | 120 仁孝 |
121 孝明 | 122 明治 | 123 大正 | 124 昭和 | 125 今上 | ※赤字は女性天皇 |