科学史
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科学史(かがくし)は、科学の歴史的経過、あるいは、それを研究する学問分野である。一般に科学史といえば科学者個人の伝記的研究や、新しい理論の発見の歴史ととらえられがちであるが、研究の実際ではその時代の文化や政治、社会との関連も考察される。学説の内容に対象をしぼった研究もある。また、技術史とも深く関わる。学説そのものに対する深い理解が必須であるため、研究は人文科学よりも自然科学(いわゆる理系)出身の領域となっている。
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[編集] 科学史の歴史
科学史が学問として成立したのは比較的遅く、アメリカ合衆国で科学史専門論文誌ISISが発刊された1912年ごろがその成立と考えられる。これ以前にも、天文学史や医学史などはこれより先に研究が進んでいたが、科学全体を体系化して学問の対象とすることが行われはじめたのはほぼこの時代と考えられる。初期の研究で比較的重要なものには、ダンネマンの『大自然科学史』(1913年)がある。
1930年代には国際会議などが開催されたこともあり、科学史の研究が大きく進められた。サートンの『科学史と新ヒューマニズム』やマートンの『十七世紀イングランドにおける科学・技術・社会』、ゲッセンの『ニュートン力学の形成』、バナールの『科学の社会的機能』などはこの時期に著された科学史研究の代表的著作であるといえる。
戦後、ハーバード・バターフィールドなどにより科学革命などの定義が行われ、研究も活発になった。1960年代以降は、原子爆弾など、科学がもたらしたものの是非に対する議論がさかんに行われるようになり、これらの議論にも科学史は必要不可欠なものとなった。このような科学の是非に対する議論を科学論という。日本では、科学史家は科学論も研究していることが多い。
[編集] 日本での科学史
日本では、数学史に関しては非常に早くから研究が行われてきた。また、唯物論研究会では1930年代に科学史や科学論についての議論が行われていた。しかし、科学全般を扱う科学史が学問としての成立をみるのは、日本科学史学会が発足し、論文誌『科学史研究』の刊行が始まった1941年ごろとみてよいと思われる。
それまでは科学史を体系的に研究する機関は存在しなかったが、戦後、東京大学教養学部が科学史を扱うようになった。この後、複数の大学で専攻コースが作られている。ただし、科学史家の研究地盤は脆弱であり、一人の研究者がある大学を去ると、その後、その大学での研究が滞ることが多い。また、科学史のみを専門に研究する研究機関も存在しない。
日本における科学史へのアプローチは、理学部のような基礎理論の一分野として研究されている場合と、科学を哲学的に検証するために、哲学の分野から研究が行われる場合の大別して2通りがある。
[編集] 主な科学史家
[編集] 分野史
[編集] 科学史概略・古代
[編集] 古代の技術
約40万年前、原人が現れる。食糧確保のために狩猟技術が進歩し、弓矢や石斧、ナイフなどの道具が使用されるようになる。農耕・牧畜が始まると人々は定住・集住するようになる。定住のため、建築技術が発生する。
紀元前3000年ころからエジプトやメソポタミアで文明がおこる。大きな権力の下に労働力・財力が集まり、ピラミッドやジッグラトといった巨大建築物が建造される。そのためには正確な測量技術および数学の発展が必要となる。神事・農業を行うために暦の作成が始まる。同じころインダス川流域、黄河流域でも文明が発達する。
[編集] ギリシア科学
紀元前7-6世紀、古代ギリシアでは小国家(ポリス)がおこり、アテネを中心に発展する。海運交易で富を得た商工階級の内から、世界の成り立ちについて考察をする人々が現れる。数学研究のピタゴラス、原子論のデモクリトスなどがいる。アリストテレスのリュケイオンのような学園ができ、学問が深化する。しかしギリシア諸都市の衰退とともにこれらの科学的伝統は衰える。
[編集] ヘレニズムの科学
[編集] アレキサンドリア
マケドニアによるオリエント地方統一の後、エジプトのアレキサンドリアにムセイオンという研究施設ができる。各地から収集された書物を収める図書館を持ち、エウクレイデス(ユークリッド)やアルキメデスらが研究を行う。 クラウディオス・プトレマイオスが『アルマゲスト』(天文学大全)をまとめ、ガレノスが医学の研究を、クテシビオスや " アレクサンドリアのヘロン " は気体力学の研究を行う。
[編集] 古代ローマ
紀元前3-2世紀、古代ローマが発展する。ローマでは人間の目的のための実用的な技術に重きがおかれ、道路や水道が整備される。高い技術力を持つ技師が現れ、建築や彫刻が発達する。科学はプリニウスが『博物学』を記すが、ギリシアのような思想・学問は育たなかった。
[編集] 中国
中国では紀元前5-3世紀、戦乱の中、諸子百家と呼ばれる思想家たちが現れる。例えば墨子の思想には数学の要素が含まれている。鍼・灸・あんまや薬物などの医療技術はこのころには確立されている。紀元前3世紀、統一王朝が現れ、度量衡・文字が統一される。1世紀ころシルクロードを通した西洋との交流が盛んになる。
[編集] 科学史概略・中世
[編集] アラビア科学
アラビアでは強力な集権国家のもとにアラビア科学が発達する。古代の科学・医学書はアラビア語に翻訳された。数学ではインドの数学を導入し、アル=フワーリズミーが代数学を始める。アヴィケンナらによって医学が発達する。しかし12世紀以降、強力な国家の崩壊とともに学問は衰えてゆく。
[編集] 西洋中世
ローマ後、ヨーロッパはキリスト教と封建制・奴隷制に基づく農業の時代が続く。8世紀のカロリング・ルネサンスで数学などが復活するが、あくまでも神学の付属という位置づけだった。農業は家畜の利用が始まり、水車や風車といった動力を得て生産力を上げてゆく。技術者はギルドを形成し、徒弟制度によって技術は定着し、製作物は改良されてゆく。13世紀には羅針盤が伝わり、造船技術の進歩とともに航海術の発展を可能にした。
12世紀ころ、農業も安定したヨーロッパでは大学がおこる。アリストテレスらの古代科学もアラビアから翻訳され、神学と科学の融合も試みられる(スコラ学)。ニコラ・オレムやビュリダンが力学的考察を行い、ベーコンが実験の重要性を指摘するなど、近代科学の土台が築かれる。15世紀のルネサンスには、ダ・ヴィンチ、ヴェサリウス、コペルニクスなどが活躍する。
[編集] 17世紀の科学
16世紀イギリスでは工場制手工業が始まり、工場に労働者が集まり分業して働くことにより、生産性が高まる。鉱業・精錬・冶金技術が確立され、時計などの精密な機械の製作が可能となる。
ギルバートはイギリス女王の前で磁石の実験を行い、ハーヴェイは動物の解剖と観察から血液の循環を発見する。ガリレイは望遠鏡を作って天体を観察し、コペルニクスの地動説に賛同して教会の反感を買い幽閉されるが、その後も『天文対話』に自分の考えを残した。デカルトは機械論的自然観に立って宇宙のエーテルや人間の脳と動物精気を論じた。ニュートンは光の研究を行い、世界を数学的に捉える力学の原理を打ち立てた。ボイルは気体の研究を行った。
[編集] 科学史概略・近代
[編集] 産業革命
17世紀後半、パパンが大気圧機関の原理を考案し、18世紀初頭に蒸気機関が製作されるようになる。その後ワットらが改良を加え、18世紀後半には動力として各方面で使われる。カートライトが設計した力織機は蒸気機関を動力とし、同時期に発展した紡績機とともにイギリスの繊維業を大いに発展させる。18世紀は製鉄技術が発達し、旋盤などの工作機械も整う。これは銃火器の進歩につながり、南北戦争など以後の戦争に影響を与えてゆく。
織物を漂白するために、硫酸と塩素を使用する化学晒しが発見され広まると、化学薬品の研究が盛んに行われるようになる。また、肥料の研究からドイツで有機化学が起こる。化学の知識はアルコールの蒸留や砂糖の精製にも役立てられた。
[編集] 18世紀の科学
力学はラグランジュによって形式的にまとめられ、自然の法則として認められる。イギリスではブラックやキャヴェンディシュらが気体の研究を行い、酸素や水素が発見される。フランスではラヴォアジェ、ドルトン、アヴォガドロらを経て、19世紀に原子の考え方に行き着く。
フランスで理工科学校という学校ができ、フーリエ、ラプラス、ラグランジュ、アンペール、ゲイ=リュサック、カルノーら様々な分野で活躍する人物を輩出する。ドイツでもベルリン実業学校から技術者や企業家が世に出るようになる。ヴォルテールはニュートンの思想をフランスに紹介し、ディドロは多数の執筆者を集めて『百科全書』を完成させる。これらの動きはフランス革命へとつながってゆく。
18世紀後半から19世紀にかけて学問の文化が進む。ボルタやエルステッド、ファラデーらにより電気学が、カルノーやクラウジウス、ケルヴィン卿により熱力学が、リンネやウォルフらにより生物学の研究が本格的に始まる。ヴェーラーやリービッヒにより有機化学が始まり、染料や薬品の合成、栄養学が始まる。生物学ではラマルクやダーウィンが進化説を、シュライデンらが細胞説を提案する。
[編集] 日本の科学
[編集] 古代~中世
日本では、縄文・弥生時代を経て4世紀ころに政治的統一体が形成される。5世紀には渡来人によって大陸の技術が伝えられ、6世紀には儒教、仏教も伝来する。大陸との文化交流は遣隋使・遣唐使によって9世紀まで続く。その後は貴族の手による国風文化が花開くが、技術が一般に応用されることは少なく庶民は困窮した。12世紀ころから政治の実権は武士に移る。開墾が進み技術は発展するが、細々と続いていた数学・天文の伝統は停滞する。
医学の分野では6世紀に『医心方』丹波康頼、『本草和名』深根輔仁、14世紀に『頓医抄』梶原性全などが成立する。15世紀には田代三喜が李朱医学を伝え、曲直瀬道三へ続く。
[編集] 西洋との接触・江戸時代
16世紀ポルトガル船が日本に来航し、40年代に鉄砲・キリスト教が伝来する。その後も南蛮人の手によりアリストテレス流の自然学やプトレマイオス流の医術が伝わる。アルメイダは豊後に病院を作り、バリニアニーらが医療を行う。『二儀略説』中村義信、『乾坤弁説』クリストファン・フェレイラなどの天文書が書かれる。ウィリアム・アダムスが造船航海術を伝え、池田好運が『元和航海書』を書く。
算術書では『割算書』毛利重能、『諸勘分物』百川治兵衛、1627年の『塵劫記』吉田光由には継子立、ねずみ算などの記述がある。やがて巻末に遺題がつくようになり、解いた人が新たな問題を加える遺題継承により内容は深化した。ほかに『竪亥録』今村知商、『発微算法』関孝和などがある。
暦・天文では、渋川春海が貞享暦をつくり『天文瓊統』を書く。本草学では、中国の『本草綱目』、『三才図会』をうけて、『多識編』林羅山、『大和本草』貝原益軒、『和漢三才図会』寺島良安、『新校正本草綱目』稲生若水などがまとめられた。また『農業全書』宮崎安貞など多くの農書が書かれ、18世紀の100年間に耕地はほぼ二倍になった。
[編集] 鎖国と蘭学
17世紀初めの鎖国令により海外との文化交流は制限されたが、徳川吉宗は新暦作成のため漢訳洋書の禁をゆるめる。青木昆陽らにオランダ語学習を命じ、新井白石から青木、前野良沢へと続く蘭学が始まる。医学では、抽象的な議論にはしる李朱医学(後世方)に対し、後藤艮山、香川修庵らが経験・実証的な古医方をはじめる。
蘭学では前野・杉田玄白らの『解体新書』のほか、理学では『天地二球用法』で太陽中心説を紹介する本木良永、『暦象新書』で力学・数学を論じた志筑忠雄などがおり、識者の間に太陽中心説が広まる。本草学では松岡恕庵、『本草綱目啓蒙』の小野蘭山などがいる。平賀源内は「エレキテル」で有名な電気学の他、様々な分野で活躍した。橋本宗吉が本格的な電気の研究を行う。暦では麻田剛立とその弟子、高橋至時、間重富が寛政暦を完成させる。その後幕府の天文方で至時の子、景保・景佑が天保暦を作成する。
1823年にシーボルトが来日し、高野長英ら多くの弟子に医学や生物学を伝える。その他、医学分野で緒方洪庵、華岡青洲がいる。理学では宇田川榕菴の『菩多尼訶経』、『舎密開宗』、青地林宗の『気海観瀾』、広瀬元恭の『理学提要』、帆足万里の『究理通』などがある。伊藤圭介は『泰西本草名疏』でリンネの分類法を伝えた。
[編集] 江戸時代後期
江戸時代後期は西欧の文化の積極的な導入が進む。開明的な藩主の主導で西欧流の造船術・砲術が取り入れられる。1855年には初の蒸気機関が完成する。長崎養生所ではポンペにより近代的な解剖学、薬学、臨床教育が行われる。幕府は長崎海軍伝習所をつくり、外国人教師を雇って系統的な教育を行う。幕府の機関蕃書調所では究理学(物理)、数学や物産・精錬学、写真術や語学の研究が行われる。また緒方洪庵の適塾や伊東玄朴の象先堂といった私塾ができ、多くの人物が巣立ってゆく。
1867年より時代は明治に変わり、西欧を強く意識した政府が作られる。1872年には学制が発布され、公教育が整備が始まる。西欧の文物を紹介した福澤諭吉の『西洋事情』は広く読まれ、科学解説書『訓蒙窮理図解』とともに小学校の教科書に指定される。
以上、『科学技術史概論』(参考文献参照)を参考にした。
[編集] 参考文献
- ダンネマン『大自然科学史』三省堂刊 ISBN 4385361061
- 山崎俊雄 他編『科学技術史概論』オーム社 ISBN 4274020053
- シュテーリヒ『西洋科学史』教養文庫 社会思想社
[編集] 関連項目
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