天保暦
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天保暦(てんぽうれき 弘化元年1月1日(1844年2月18日) - 明治5年12月2日(1872年12月31日))は、かつて日本において使用された太陰太陽暦の暦法である和暦。正式には天保壬寅元暦(てんぽうじんいんげんれき)と言う。これは過去の中国の暦法にも同名の天保暦があったためである。日本の旧暦は狭義にはこの天保暦である。
天保15年(1844年)にそれまでの寛政暦から改暦され、弘化元年1月1日(1844年2月18日から使用され、明治5年12月2日(1872年12月31日)までの29年間用いられた。次の暦はグレゴリオ暦(太陽暦)であり、いわゆる日本の新暦である。
[編集] 概要
渋川景佑らが、西洋天文学の成果を取り入れて完成させた暦で、実施された太陰太陽暦としてはそれまでで最も精密なものであるとして評価されている。
それまでは、二十四節気を1年間を等分(時間分割)して計算する「平気法」が使用されていた。天保暦では、太陽の位置を計算し、天球上の太陽の軌道を24等分(空間分割)して二十四節気を求める「定気法」を採用した。
しかし、定気法の採用については、置閏法(閏月の置き方)がかえって複雑になったとの批判がある。これにより、2033年の日付がおかしくなるという問題(定義通り運用すると九月の次が十一月になってしまう)が報告されている(旧暦2033年問題)。また、中国や西洋の流れに反して不定時法を暦法において公式に導入したことに関しても強い批判がある。
なお、明治維新の際、陰陽頭土御門晴雄が太陽暦導入に反対して、太陰太陽暦に基づく改暦を企てたが、明治2年に晴雄が急逝して計画が中止されたために、天保暦が日本における最後の太陰太陽暦となった。
[編集] 改暦以後の旧暦
日本では、新暦への改暦以来現在まで、「旧暦」という名前の太陰太陽暦が暦書やカレンダーなどに記載されている。これは現代天文学による月と太陽の動きから朔と二十四節気を計算し、置閏法のみ天保暦と同じにしたものであり、厳密には天保暦ではない。
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