Privacy Policy Cookie Policy Terms and Conditions 真田信繁 - Wikipedia

真田信繁

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真田信繁 凡例
真田幸村(信繁)公之像(大阪市天王寺区真田山町)
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真田幸村(信繁)公之像(大阪市天王寺区真田山町)
時代 戦国時代から江戸時代前期
生誕 永禄10年(1567年
死没 慶長20年5月7日
1615年6月3日
別名 弁丸(幼名)、源二郎(通称)
真田幸村(別名)
諡号 伝心月叟
官位 従五位下、左衛門佐
氏族 真田氏
父母 父:真田昌幸
母:山手殿(寒松院)異説有
兄弟 兄:真田信之
正室:大谷吉継の娘・竹林院
側室:豊臣秀次の娘
長男:真田大助
次男:真田大八
三女:阿梅(片倉重長後室)
六女:おかね
七女:阿昌蒲(片倉定広室)

真田 信繁さなだ のぶしげ永禄10年(1567年) - 慶長20年5月7日1615年6月3日)は、安土桃山時代から江戸時代の前期の武将。一般には「真田 幸村さなだ ゆきむら)」の名で知られている。

武田信玄の家臣、真田幸隆の孫。生年は没年の49歳から逆算されたもので、月日は不明。

目次

[編集] 名前について

幼名は弁丸(べんまる)、通称源二郎(げんじろう)。 の「信繁(のぶしげ)」は、武田信玄に生涯忠義を尽くした名臣武田信繁にあやかって命名されたと云われている。真田家の本姓滋野(しげの)であり、豊臣秀吉から豊臣姓を許されていた。故に、正式な名乗りは滋野信繁(しげの・の・のぶしげ)、または豊臣信繁(とよとみ・の・のぶしげ)となる。

[編集] 「真田幸村」の由来

講談などの影響で「真田幸村(さなだゆきむら)」の名で広く知られているが、信繁直筆の書状を始め、彼が生きていた同時代の史料で「幸村」の名が使われているものは存在しない。従って歴史上の人物の名としては「信繁」が正しい。「幸村」という名に関しては後述する「真田幸村」の節を参照のこと。

「幸村」の初出は江戸時代の1672(寛文12)年成立の軍記物語『難波戦記』にあるが、いつしか「幸村」とすることのほうが一般的となり、後には信之の子孫である松代藩の史書ですら「幸村」が採用された。現代では講談歴史小説映画などを通じて幸村の名が広く知られている。「幸」は祖父や父・兄の通字であり、「村」は信繁の姉の村松や、信繁の子孫が仕えた伊達氏伊達綱村、また、徳川家を呪ったとされる妖刀村正に由来しているとする説などがある。

[編集] 生涯

[編集] 武田家臣時代

1575年(天正3)、信繁が9歳の時、真田氏の主家で甲斐国山梨県)と信濃国を治める武田勝頼長篠の戦い織田徳川連合軍の前に敗北した。この際、父・昌幸の2人の兄も亡くなったため真田家は昌幸が継ぐこととなり、信繁は父に付き従い甲府(甲府市)を離れ上田に移る。そして信繁も真田を称するようになる。

1582年(天正10)3月11日、織田・徳川連合軍の甲斐侵攻で武田氏が滅亡すると、真田氏は織田信長に恭順した。3月19日、武田遺領の分割が行われ、真田氏は所領を安堵された。

[編集] 本能寺の変の後

同年6月2日に信長が本能寺の変で家臣の明智光秀に討たれると、織田家関東管領であった滝川一益は、地元の伊勢に引き上げてしまう。信長という後援が無くなった真田氏は、所領を守るために上杉氏後北条氏・徳川など周辺の諸大名に傘下に入っては離れてを繰り返した。この際に当主の息子である信繁は、人質として諸大名の下を転々としている(この頃真田氏は徳川家康と所領争いをし、豊臣秀吉の仲介で和解するも、遺恨を残している)。昌幸は最終的に豊臣秀吉の傘下に入ったために秀吉の下に留まり、豊臣氏の恩を受ける。また、信繁は豊臣秀吉の家臣である大谷吉継の娘を正妻に迎えている。

[編集] 関ヶ原の合戦

秀吉死後の1600年(慶長5)に、五大老の徳川家康が会津の上杉氏討伐の兵を起こすと従軍し、留守中に五奉行石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢し(信繁の妹の夫は三成の義兄・宇田頼次)、妻が本多忠勝の娘(小松殿)で、徳川方の東軍についた兄・信之と敵対する立場となった。

徳川方の東軍は軍団を2分し、東海道中山道を進軍すると、昌幸と信繁は居城上田城に籠り、中山道を進んできた東軍の徳川秀忠の軍を上田城に引き付け、散々に徳川軍を打ち破った(第二次上田合戦)。結果中山道を進んだ秀忠軍は侵攻が遅れ、結果として主戦場となった美濃関ヶ原での決戦に間に合わなかった。

しかし三成率いる西軍は9月15日に敗北を喫する。昌幸と信繁は、本来なら敗軍の将として切腹を命じられるところだったが、信之の必死の取り成しで二人は紀伊国九度山に配流を命じられるのみにとどまった(本来なら高野山配流であったが、信繁が竹林院を伴っていたため、女人禁制のかどで九度山に変わったと言われている)。

蟄居中の1611年に父・昌幸は死去。1612年(慶長17)には信繁は出家、伝心月叟と名乗った。

[編集] 大坂城に入城

1614年方広寺事件」をきっかけに徳川氏豊臣氏の関係が悪化、豊臣家は浪人を集めて勇士を募る策を取り、九度山の信繁の元にも使者を派遣、黄金200枚、銀30貫を贈った。信繁は国元にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して子の大助幸昌とともに大坂城に入城した。信繁の率いた軍は鎧を赤で統一していたという(真田の赤備え)。しかし信繁自身についてはそれまで真田氏の次男坊として父・昌幸や兄・信之の名声に隠れていたために評価は低く、徳川家康も昌幸ではなく、その息子で無名の信繁が大坂に入ったと知り安堵の表情を浮かべたとされている。

[編集] 大坂冬の陣

1614年に始まる大坂冬の陣で信繁は、当初籠城に反対し、京を抑え、宇治・瀬田で積極的に迎え撃つよう主張した(知将である父・昌幸の策とも言われる)。しかし籠城の策と決すると、信繁は大坂城の弱点であった三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城を築き、鉄砲隊を用いて徳川方の攻撃を一身に受けて奮戦した。この時は越前松平勢、加賀前田勢等を撃退し、真田昌幸の息子という扱いではなく、初めて“真田信繁”として、その武名を知らしめる事となる(信繁が主体的に戦闘の指揮を執った事が確認されるのは大坂の陣だけである)。

冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に真っ先に取り壊されてしまった。そして大坂方の弱体化を謀る家康は、使者として信繁の叔父である真田信尹を派遣し「信濃の中で一万石を与える」事を条件に寝返るよう説得している。しかし信繁はこれを断った。すると家康は再び信尹を使者として差し向け、今度は「信濃一国を与える」と説得に出た。これを聞いた信繁は「この信繁、一万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか」と再びはねのけたという。 [要出典]

[編集] 大坂夏の陣

翌年の大坂夏の陣では、奥州・伊達家自慢の騎馬鉄砲隊を、長柄槍隊を地面に伏せながら闘う戦法で撃滅(道明寺の戦い)。これら度々の勝ち戦により、次第に徳川軍も真田軍への攻撃を自重せざるを得なくなり、信繁はそれを見て堂々と大坂城に一時撤収した。その撤収の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている(ただ、「道明寺の戦い」では信繁の行軍ミスにより援軍に赴くはずの後藤基次勢は壊滅し、基次は討死している。歴史小説で強調されるような大活躍だけではなかったことも記憶すべきである。しかしこのとき信繁は豊臣勢の総指揮権を得ていない。そして全軍の指揮系統が錯綜していたのも事実である、この時期の総指揮は大野修理が行っている。又この戦いの前に家康は後藤氏に対し徳川方への寝返りを謀略によって実行している為、後藤氏に対して豊臣方では謀反の噂が流れた。そのため死を決して先鋒を勤め先陣を進んでいった。そして後方部隊との開が出来、数の上で圧倒的な徳川勢の攻撃が集中してしまった為、壊滅したといわれている)。

だが豊臣軍は後藤基次木村重成などの主だった武将が討死し、疲弊していく。信繁は士気を高める策として豊臣秀頼自身の出陣を求めたが、側近衆に阻まれ失敗する。豊臣氏の敗色が濃厚となる中、信繁は最後の作戦を立てる、それは豊臣方右翼として真田軍、左翼として毛利勝永軍を四天王寺茶臼山付近に陣形し射撃戦と突撃を繰り返し家康の陣形に対し本陣を孤立させ、明石全登の軽騎兵団を迂回させ家康本陣を横撃させるというものだった。しかし味方が勝手に射撃開始をしてしまった為作戦を断念せざるを得なくなった。そして正面から徳川家康の本陣めがけて決死の突撃を敢行した。この突撃については真田軍のみの突撃ではなく左翼から攻める毛利勝永明石全登らも奮闘し家康本営に肉薄した、勝永は何度か本営に突進したといわれる。

真田軍は越前松平勢を突破し、家康の本陣まで攻め込み、屈強で鳴らす家康旗本勢を散々に蹴散らした(ちなみに、本陣に攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目と言われ、真田軍の凄まじさに家康は自害を覚悟したほどだったという)。

しかし、最終的には数で勝る徳川軍の前に追い詰められ、ついに四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で、越前松平勢鉄砲組の西尾仁左衛門にその首を授けた。享年49。

信繁討死の翌日5月8日、豊臣秀頼淀殿母子は大坂城内で自害、太閤秀吉の誇った大坂城も落城し炎上。ここに大坂夏の陣は徳川方の勝利に終わり、信繁最後の野望も戦場に消えたのである。

[編集] 人物

彼の人柄は、兄・信之の言葉によると柔和で辛抱強く、物静かで怒る様なことは無いという、およそ勇猛な武将のイメージとはかけ離れたものであったようである。また信之は『幸村君伝記』において「幸村は国郡を支配する本当の侍であり、それに対して我らは見かけを必死に繕い、肩をいからしている道具持ちという程の差がある。」とも語っている。

ただし、既に触れたように幸村は後の時代に創られた名前のため信之が“信繁”ではなく“幸村”と言う訳もなく、後世の脚色であると思われる。後世の真田関係の資料は信繁を「幸村」として神格化させる動きがあり、真田信繁関係の資料の信憑性には疑問がある。

大坂夏の陣における信繁の奮闘ぶりは、島津家当主の島津忠恒の国許への書簡においてこう記述されている。

真田日本一の兵。古よりの物語にもこれなき由
惣別これのみ申す事に候。真田は、千載人口に残る奇策幾千百ぞや。
そもそも信州以来、徳川に敵する事数回、一度も不覚の名を得ず、
徳川の毒虫なりと世に沙汰せり、当世の英雄真田を非ずして誰ぞや。
絶等離倫、一世の人物、今にいたりて女も童もその名を聞きてその美を知る。
彼処に現はれ此処に隠れ、火を転じて戦ひけり。
聚合離散の形勢、前にあるかと見れば忽焉、後にあり。
早天に真田左衛門。茶臼山に赤幟を立て、備え赤一色にて、
つつじの咲きたるが如し真田左衛門。合戦場において討ち死に。
古今これなき大手柄。真田下知を守りたる者天下に是なし。

この「真田日本一の兵(つわもの)」評によって、真田軍の名は不朽のものとなった。

※但し、この戦いに島津氏は参加しておらず、島津当主はあくまでも伝聞から信繁の奮戦ぶりを推測して話した。

信繁の遺髪は諸将がこぞって取り合うところとなった。家康は大坂方の諸将の中で最も活躍した信繁に脅威を覚え、大坂冬の陣の後には信濃一国40万石で彼を調略しようとしているが、信繁はこの破格の条件に興味を微塵も見せず豊臣家への忠誠を最期まで貫き通している。

異説

信繁の忠臣説には異を唱える者もある。

  • 信繁と徳川氏は「不倶戴天の敵」であったといわれるが、これは後世の俗書や小説等による影響である。
  • 関ヶ原に西軍として参戦し、改易され、復活を遂げた唯一の大名と言っていい「剛勇鎮西一」立花宗茂も、本領に復帰する前に与えられた所領は陸奥棚倉1万石であった。宗茂より知名度も実績も劣る信繁が信州40万石を与えられる可能性は低い。
  • 家康からの破格の条件を断ったのが、豊臣家への忠誠のためであったかは推測することしかできない。


信繁の兄や叔父らが徳川家の臣下であることを根拠に「信繁は徳川方の間者である」という豊臣家臣からの誹謗中傷もあったと言われている。

江戸時代になってからも、その軍略、人物共に慕われ続け、幕府側もそれを敢えて禁ずることはなかった。

旗印である六文銭は、六道銭を表しているといわれている。六道銭とは、亡くなった人を葬る時、棺に入れる六文の銭の事で、三途の川の渡し賃のことである。これを旗印にすることは「不惜身命」(ふしゃくしんみょう:仏法のために身命をささげて惜しまないこと)を意味するといわれている。

[編集] 真田 幸村

真田 幸村(さなだ ゆきむら)とは江戸時代以降に流布した、小説や講談における真田信繁の通称。「第一次上田合戦」(真田信繁はこの戦いに参加した証拠が無く、上杉家に人質として入っていた可能性が高い)、「関ヶ原の戦い」の前哨戦である「第二次上田合戦」で、真田十勇士等の忍者軍団を使い大活躍し、その後「大坂の役」でも奮戦するが、大坂夏の陣で力尽き討死する。

[編集] 伝説

元和元年5月7日、享年49で死去したものとされるが、幸村には影武者が何人も居たとの伝承があり、そのため大坂城が落ちるのを眺めつつ、豊臣秀頼を守って大坂を脱出し、天寿を全うしたという俗説がある。

「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きものいたり鹿児島へ」というわらべ歌が流行したという。

[編集] 「真田三代記」

『真田三代記』は江戸元禄期の歴史小説であり、真田昌幸・幸村・大助の三代、親・子・孫が徳川を相手に奮闘する物語である。後に生まれる真田十勇士中、猿飛佐助と望月六郎をのぞいた八勇士が登場。これが十勇士の原型とみられ、真田もの講談の流布とともに真田人気に繋がった。

土橋 治重による現代語訳がPHP文庫から刊行されている。

[編集] 真田十勇士

真田幸村の忍者として著名な「真田十勇士」は、「真田三代記」や「難波戦記」を底本として、大正時代に一斉を風靡した立川文庫の中の一冊·「猿飛佐助」が大好評を博し、その総集編のタイトルとして使われたのが始まりとされる。類似ケースに「尼子十勇士」がある(但し、資料によって弱干のバラツキが見られる。)。

主に上がる名前は猿飛佐助霧隠才蔵根津甚八由利鎌之助筧十蔵三好清海入道三好伊三入道望月六郎海野六郎穴山小介(息子の真田大助を入れるケースもある)。

いわゆる現在の幸村伝説と彼をとりまく十勇士の顔ぶれが確立したのは、明治末から大正初期にかけて子どもの人気を集めた『立川文庫』からである。猿飛佐助や霧隠才蔵は架空とも言われるが、海野六郎·根津甚八·望月六郎の姓のルーツは真田一族配下の滋野一党の姓と同一であり(根津に関しては、浅井長政の忘れ形見?である浅井井頼がモデルという説もある)、また三好兄弟はそれぞれ三好政康・三好政勝がモデルと言われている(政勝は家康側として参陣していたが)。

[編集] 小説

[編集] 時代劇

[編集] 人形劇

[編集] アニメ

インスパイヤ

[編集] 漫画

[編集] 映画

[編集] ゲーム

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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