真田幸隆
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真田 幸隆(さなだ ゆきたか、永正10年(1513年)-天正2年5月19日(1574年6月8日))は戦国時代の武将。信濃の在地領主で、甲斐国の戦国大名、武田氏の家臣。幼名を小太郎、弾正忠。後に剃髪して一徳斎と号す。系図上では「幸隆」と記されるが、史料においては幸綱と記され、また子に“隆”を通字とする者がまったく居ない事などから、近年ではこちらを正しい名乗りであり、晩年に「幸隆」と改めたと考えられている。弟に矢沢頼綱。室は真田氏家臣河原氏の娘か。子に真田信綱、真田昌輝、真田昌幸、真田信尹、金井高勝。
信濃国小県郡の豪族・海野棟綱あるいは真田頼昌の子として生まれたとされている。幸隆の出自については様々な家系図とともに諸説あり、真田氏自体も幸隆以前の記録が少ないとはいえ存在しているため、真田頼昌を棟綱の娘婿とする説や海野棟綱の子である幸隆が頼昌の養子になったなど、様々な見解があるものの未だに詳細は判明していない。本稿では海野棟綱の子として記載するが、今後の調査によって別の事実が判明する可能性もある事を付記しておく。
[編集] 略歴
天文10年(1541年)、信濃へ進出した武田信虎は諏訪氏や村上義清と共に小県郡へ侵攻、5月の海野平合戦により海野一族は駆逐され、箕輪城主長野業正を頼って上野国に逃れる。海野棟綱は関東管領・上杉憲政の力で旧領の回復を図っていたが、天文15年4月に憲政は後北条氏に敗北している。武田氏では天文10年(1541年)に武田晴信(信玄)が実父信虎を国外追放して家督を継いでおり、佐久郡、小県郡へ侵攻していた。帰属時期は諸説あるが、幸隆は武田へ臣従して旧領回復を図っており、『甲陽軍鑑』に拠れば天文17年(1548年)の上田原の戦いに板垣信方の脇備として参戦している。『高白斎記』に拠れば、幸隆は調略を用いて村上方の望月氏を武田方に臣従させたという。
武田氏臣従後は信濃先方衆として活躍。信濃国制圧に尽力し、小県郡諏訪に知行を約束されている。天文19年(1550年)8月の戸石城攻めは幸隆の要請にもよるものと言われる。戸石城攻略は「戸石崩れ」と呼ばれる大敗で失敗するが、『高白斎記』に拠れば翌天文20年には幸隆の謀略により村上勢は切り崩され、攻略されたという。天文22年(1553年)に村上義清は駆逐されて越後へ逃れ、旧領を回復する。幸隆は本拠を松尾古城から松尾本城へ移し、戸石城番を兼ねる。
村上義清は越後上杉氏を頼り川中島の戦いがはじまると、その最前線に置かれる。本弘治2年(1556年)には埴科郡東天飾城を攻略し、小山田昌辰とともに城番を務める。永禄2年(1559年)に晴信が出家して信玄と名乗ると、自身も剃髪して一徳斎と号す。永禄4年、越後上杉氏との第四次川中島の戦いでは、妻女山の上杉本陣への夜襲に加わっていたという。
川中島合戦ののち武田は西上野侵攻を開始するが、天文23年の甲相駿三国同盟成立後には、上野へ侵攻する上杉に対して北条氏康から幸隆に出兵要請がされており、幸隆は関東方面の戦略に関わっていたと考えられている。武田氏に提訴されていた吾妻郡内での鎌原氏と羽尾氏の所領抗争は、双方が真田の同族でもあり、幸隆が調停に関わっている。永禄6年には羽尾氏を支援した上杉方の斎藤氏の居城岩櫃城を、永禄8年には獄山城を、永禄10年には白井城を攻略している。
この頃には、家督を嫡子信綱に譲り、隠居していると思われ、駿河国侵攻や上洛軍には加わらず、専ら北部及び上州方面の抑えとして活動した。天正2年(1574年)5月19日、戸石城で病死。享年62。
その武略の才は晴信に評価され、外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えた。武田家中でも一目置かれていたと言われ「攻め弾正」の異名で呼ばれた。