殉教
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殉教(じゅんきょう)とは自らの帰依する宗教のために命を失ったとみなされる死のこと。宗教一般において見られ、宗教的迫害において命を奪われた場合や、棄教を強制され、それに応じないで死を選ぶ場合など、様々な形の殉教がある。
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[編集] ユダヤ教徒の殉教
もともとユダヤ教は一神教であり、多神教全盛期の古代にあって特異な性質を持つ宗教であったうえに信徒に独特の生活スタイルを要求することから、ギリシャ化されてゆく世界の中で異質な存在として蔑視される傾向があった。
紀元前2世紀、セレウコス朝の王アンティオコス4世がユダヤを統治していた時代、「時代遅れ」のユダヤ教を廃止しようと、ユダヤ人に対してユダヤ教を捨てることが要求された。マカバイ記Ⅱでは、その中で棄教を拒んだ律法学者エレアザル、ある母親と七人の兄弟が拷問のすえに殉教したことが克明に記録され、信仰の模範として賞賛されている。
[編集] キリスト教徒の殉教
歴史的に、キリスト教で使われてきた「殉教」(ギリシャ語:Martirya)の語は「証人」という言葉に由来している。すなわち、殉教とみなされるためには、その死がその人の信仰を証していると同時に、人々の信仰を呼び起こすものであるかどうかということが基準とされているのである。(なおキリスト教の一教派である東方正教会(日本ハリストス正教会)では殉教の代わりに致命・致命者の語を用いる。)
キリスト教の最初の殉教者として新約聖書(使徒行伝・使徒言行録)に登場するのはステファノと使徒ヤコブである。(洗礼者ヨハネもキリスト教において殉教者とみなされるが、イエス・キリストより以前に死んだ彼は厳密な意味ではキリスト教の殉教者とはいえないであろう。)伝承によると、イエスの十二使徒は、(イスカリオテのユダはもちろん例外として)ヨハネを除くすべてのものが殉教したと伝えられている。
[編集] ローマ時代
キリスト教は、自分たちの崇める神以外の神を認めない一神教である。これは古来の神々への崇拝を重視するローマ帝国の政策に反していたため、皇帝ネロ以来キリスト教は禁止された。さらに後期ローマ帝国において皇帝崇拝が強化されると、キリスト教徒への迫害が強まった。古代末期のディオクレティアヌス帝やデキウス帝は皇帝崇拝を強化し、キリスト教徒を積極的に弾圧した。この時期を大迫害期と呼ぶ。また、初期の教皇たちもその多くが殉教している。
ローマ人は皇帝が神だと信じていたわけではなく、皇帝への服従を形式によって示すことを期待していた。ローマの知識人はキリスト教の教義そのものを敵視していたわけではなく、むしろ迷信に惑わされたものとして同情していたが、国の政策に公然と反対するキリスト教徒の強情さは罪に値すると考えていた。
しかし、自分の口から皇帝を神と認める言葉を出すことは、キリスト教徒にとっては重大問題であった。皇帝崇拝を拒んだキリスト教徒は、捕らえられて死刑に処された。こうして殺された人を、キリスト教徒は殉教者として信仰の証人とみなした。なお洗礼を受ける前にキリスト教への支持を表明して殉教することは「血の洗礼」と呼ばれた。
ローマにおいて皇帝崇拝の強制は時折り発動されることにすぎず、その際もキリスト教徒を根こそぎに処刑するような措置はとられなかったが、初期キリスト教徒にとって迫害は生涯のうちに何度か必ず直面せざるをえないことだった。信仰告白による死の危険を自分がどこまで冒すのか、またそれをどこまで他の信者に要求できるのかは、当時のキリスト教徒にとって深刻な問題であった。
[編集] 殉教者への崇敬
キリスト教が公認されるとローマ帝国内での迫害・殉教は終息した。その後、ヨーロッパ北方への宣教者が現地の宗教と衝突して殉教する事件がおきた。ただしキリスト教化された地域においても、時の政権に反対を述べて殉教する者(例:ネポモクのヨハネ・モスクワのフィリップ)、あるいは対立する教派に属する者に殺害され殉教する者(例: ペトルス・マルティヌス)がおり、殉教は必ずしも非キリスト教地域に固有な現象ではない。
キリスト教教会は、殉教者を、神と人間を仲介できる存在、聖人と位置づけて祈りの対象とした。また聖人の遺体(聖遺物・不朽体)も信仰の対象となり、病気治しなどの奇跡を起こす力があると考えられ、高額で取引されることもあった。アウグスティヌスは聖人の遺体を商取引にすることを非難する文書を残しているが、聖人崇敬自体は奨励している。そこで、ヨーロッパの民衆にキリスト教が根をおろすと、聖人と聖遺物に対する各地域の「需要」が増えた。その風潮の中で、聖人と聖遺物を増やすために過去の殉教の伝説が誇大に伝えられることがあった。
[編集] 近代における殉教
宣教者の活動は破壊を伴う異文化との正面衝突を意味し、その意味で殉教の可能性を増やす。イエズス会等が非キリスト教地域に宣教に乗り出し、その後多くの宗派が世界中に宣教者を送り出すようになると、各地で殉教が生じるようになった。たとえば16世紀に北米地域でネイティブ・アメリカンに殺害されたイエズス会員がいる。
しかし殉教を作るのは殺す側であって殺される側ではない。大規模な殉教は、死刑をもってキリスト教を排除する権力者の政策によるものであった。そういった国々には日本、韓国、ベトナムなどがあった。
特に日本では、個々の教義や態度が問題にされるのではなく、キリスト教徒であること自体が罪とされた。逮捕された者は、キリスト教を棄てれば許された。しかし棄教を拒んだ人は例外なく死刑になり、しばしば拷問の末に残酷な処刑方法で殺された。こうして、16世紀末から17世紀初めの日本では、多くの外国人宣教師と日本人信者が殉教した。信仰が極刑にされた背景には、一向一揆との戦いを経験した武将たちが、強い信仰に警戒心を抱いていたこと、さらにキリスト教が植民地化の尖兵としての宣教師を伴った危険なものであると当時の支配者たちが考えたことにある。
宣教師の到来がとだえ、キリスト教徒の活動が表面から消えることで、日本での殉教は少なくなった。しかし完全に絶えたわけではなく、江戸時代を通じて隠れキリシタンの発覚と殉教が散発した。キリスト教徒への迫害は、欧米諸国の圧力で明治時代初期に廃止された。
ヨーロッパにおいても、16世紀、ヘンリー8世が離婚問題のこじれを発端にしてカトリック教会から離れることを決意したとき、強硬に反対したため、処刑されたトマス・モアが殉教者とみなされている。
[編集] 近代から現代における殉教
近代から現代にかけても決して殉教とは無縁の時代でなく、その中には殉教者とみなされているものもいる。
李氏朝鮮では18世紀から19世紀にかけて、多くのキリスト教徒が殺害された。19世紀末期、アフリカのウガンダでは反キリスト教的な政策によって多くの信徒が命を落とした。1910年代、ロシア革命後の無神論の立場を取るソビエト連邦政府の元で、キリスト教は弾圧され、多数の信者や聖職者が犠牲となった。また、メキシコにおいても20世紀初頭、政府の迫害によってキリスト教徒や聖職者が殺害された。1930年代にはスペイン内戦でもカトリック教会が迫害され、多くの聖職者や信徒が殺害された。彼らのうち233人が殉教者として2001年に列福されている。
1940年代のナチス・ドイツの強制収容所で命を落としたポーランド人、ユダヤ人(キリスト教徒)などのある人々も殉教者とみなされ、列福されている。その中でもっとも有名なのがマキシミリアノ・コルベ神父である。また、1989年には内戦中のエルサルバドルで司祭というだけの理由で六人のイエズス会員が殺害され、世界に衝撃を与えた。
[編集] キリスト教における主な殉教者
- 使徒ペトロ(1世紀)
- 使徒パウロ(1世紀)
- アグネス(3世紀?、ローマ)
- ヴァレンタイン(3世紀、実在性には疑問も、ローマ)
- ブラジオ(3世紀、アルメニア)
- カヌート4世(11世紀、デンマーク)
- 日本二十六聖人(16世紀、日本)
- カロロ・ルワンガ(19世紀、ウガンダ)
- アンデレ・ドゥン・ラク(19世紀、ベトナム)
- 津和野における殉教者(19世紀、日本)
- マキシミリアノ・コルベ(20世紀、ポーランド)
[編集] 関連項目
- 宗教弾圧
- 棄教
- 死生観