ディオクレティアヌス
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ガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌス(ラテン語:Gaius Aurelius Valerius Diocletianus、245年 - 313年)は、ローマ帝国の皇帝(在位:284年 - 305年)である。軍人皇帝時代を収拾し、ドミナートゥス(Dominatus、専制君主制)を創始し、テトラルキア(四分割統治、四分治制)を導入した。
属州イリリクムの生まれ。「ディオクレティアヌス」というのは皇帝になる際につけた名で、本来はディオクレス(Diocles)という。一兵卒から親衛隊長官にまで出世し、先帝ヌメリアヌスの死後、軍に推戴されて小アジア西北のニコメディアで即位し皇帝となった。
当時、広大なローマ帝国の統治と防衛を単独で行うのは困難だと考えられた。そこで、軍の同僚だったマクシミアヌスを共同皇帝として西方を担当させ、自身はニコメディアを拠点に東方を治めた。彼らは国境防衛に便利なように前線にほど近い都市に宮廷を置いたため、既に荒廃していたローマの重要性はますます低下し、ローマ帝国の重心は東方におかれるようになった。
292年、それぞれの皇帝が正帝(アウグストゥス)として副帝(カエサル)を任命し、彼らにライン川とドナウ川の防衛線の維持に当たらせた。この制度はテトラルキア(四分割統治、四分治制)と呼ばれ、帝国は事実上4人の皇帝によって統治されるようになった。だがこの制度は、ディオクレティアヌスの巧みな政治手腕に依るところが大きかったため、彼が引退するとその均衡は崩れ、帝国は再び混乱した。
ディオクレティアヌスは、皇帝権と帝国防衛を強化するため、自らの軍事力を増強し、課税強化を図って官僚制を整備した。合わせて、属州をおよそ100程度に再分割し属州総督の権力を削減した。これ以降の帝政を、こうした専制的な皇帝が官僚制を通じて人民を支配した構造からドミナートゥス(専制君主制)と呼ぶ。この体制は、五賢帝時代には遠く及ばなかったが、一時的に帝国に安定をもたらした。だが一方で、各都市に一定の範囲で認められていた自治を奪い、各地の都市を衰退させる要因となった。官僚制の整備によって軍政と民政が分離したことで、属州の自立はおさえられた。この軍政と民政が分離する構造は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)にも受け継がれ、7世紀のイスラーム勢力侵入に合わせて軍管区(テマ)制が導入されるまで続いた。
ディオクレティアヌス以降のローマ帝国は、慢性的な財政難に陥った。増強された軍隊と肥大化した官僚制の維持に膨大な費用がかかった上、外敵との抗争があいついだ結果であった。それゆえ、市民に課される税は、ユリアヌス帝の時代を除けば厳しくなる一方であった。土地・人口の調査が行われ、人頭税(ユガティオ)と土地税(カピタティオ)が導入された。この二つは後に結びついてカピタティオ・ユガティオ制へと至った。その他、最高公定価格の設定、手工業者に対する統制、公設の奴隷市場開設など様々な経済政策が打ち出されたが、帝国財政再建には至らなかった。
危機に瀕したローマ帝国の統一を回復・維持するため、ディオクレティアヌスは自らの皇帝権力を宗教により神聖化させようとした。ペルシア風の拝跪礼の導入や、伝統宗教の再興を図ったことがその例である。こうした姿勢は、ローマ帝国がかつて有していた市民共同体としての性格を失わせるものであり、むしろ後の東ローマ帝国に通じていた。また、これらの政策は皇帝崇拝を拒んだキリスト教徒との対立を招き、彼らの弾圧が行われたとされる。これは、キリスト教史を編纂する側からは「大迫害」と呼ばれており、キリスト教史上最も多くの信者が弾圧によって殉教したとされる。
305年、彼は健康を崩したこともあって退位し、アドリア海に臨むサロナ(スプリト近郊)に離宮を作って隠棲し、数年後にそこで亡くなった。古代の歴代ローマ皇帝の中で、引退した例は彼のほかにはほとんど存在しない(ただし、ローマ帝国がキリスト教化されて以降は、修道院へ引退という例が多くなる)。
[編集] 統治地域
- 東方
- 西方
[編集] 参考文献
- 桜井万里子・編『世界各国史17 ギリシア史』、山川出版社、2005年。
- 塩野七生・著『最後の努力 ローマ人の物語XIII』