東方正教会
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東方正教会(とうほうせいきょうかい、英語 : Eastern Orthodox)は、キリスト教の教派のひとつ。単に正教会(Orthodox Church)とも言い、東方教会と呼ばれる場合もある。また英語から入った慣例により、ギリシャ正教、ギリシャ正教会と呼ぶこともある。日本では主にロシア正教から教えが入った。
使徒継承教会のひとつで、1世紀にまでさかのぼる歴史をもつ。「最も古いローマカトリック教会(西方教会)から東方正教会が分離した」といった認識や言説は今日でも散見されるが、事実に大きく反する。ローマ教皇が東方教会に対して西方教会に対するのと同じような権限を行使し得た史実は無いからである。東方正教会もローマカトリックも自らを使徒継承教会としているのであって、いずれかを「本家」とするような解釈は著しくローマカトリック側の見解に偏ったものであるといえよう。東西教会のいずれも自らを正統であると自認している。
東方正教会は8世紀から11世紀にかけて西方教会との差異を深め、11世紀頃に東西に分裂したとされるが、1054年の「ケルラリオスのシスマ」と呼ばれる東西教会の相互破門は完全な分裂に帰結したとは言えず、その後も東西教会の交流は続いていた(後述参照)。より確定的な分裂の契機となったのは1204年の第四回十字軍であり、これにより東方正教徒の反西方教会感情と、それによる東西教会の決別が決定的となった。
成立期において東地中海地方を主な基盤としたことから「東方正教会」の名があるが、今日では世界五大陸すべてに信徒が分布する。各地域の教会は、国をおもな単位として、信仰と精神性と伝統を共有し、相互に独立と自主性を認め合いつつ、温和な連携を保っている。諸教会の諸主教・諸首座主教のなかで、コンスタンティノポリス(英語名コンスタンティノープル、現在のイスタンブル)の総主教が名誉上の首位であり、世界総主教(エキュメニカル総主教)と呼ばれる。いわば、コンスタンティノポリス教会を名誉上の首座として尊敬しつつ、各主教を核に連帯を保っている国別の正教会の総体が東方正教会であるといえる。
日本のキリスト教諸教会の中では、日本ハリストス正教会が東方正教会に属する。日本ハリストス正教会ではイエス・キリストを、ギリシャ語・ロシア語由来の読み方でイイスス・ハリストスと読むなど、用語上、日本の慣例的な表記と異なる点がある。以下、この記事では日本ハリストス正教会で使われている用語を断りなく用いる場合がある。
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[編集] 名称
東方という呼称は、西方教会(カトリック)に対する語である。両者は11世紀頃に分立した。東方教会という名称自体は多く西方で使われた語であり、東方正教会自体は、たんに「正教」ないし「正教会」の語を好んで用いる。これは「正教」が「正しい教え」であるため、それ以上の限定を必要としないという発想に基づいている。また自称としては「正教徒」が多く使われる。
日本語の「正教」、英語名の Orthodox はギリシャ語のオルソドクシア "ορθοδοξία" が起源で「正しい賛美」を意味し、正しく神を賛美するためには正しい信仰が必要なことから、「正統教会」も意味する。なお、西方教会はカトリック(普遍教会)を称しているが、「オーソドクス」と「カトリック」は元来、概念として対立するものではなかった。双方の概念は違う文脈からキリスト教の本質をいおうとしたものである。正教会もまた信経にある通りに、「一つの聖にして『公なる』(カトリケー)使徒の教会」であることを任じており、教会の普遍性(カトリック性)を深く自覚している。
英語ではギリシャで発祥した教会という意味で Greek Orthodox Church といい、これにあわせて日本では東方正教会を指してギリシャ正教と呼ぶことも多い。これはギリシア語圏に東方正教会の中心があったことから誤用とはいいがたく、日本ハリストス正教会関係者のなかにも、ギリシャ正教の語を用いるものがある。なおギリシャ正教会と呼ぶこともあるが、これは近代に設置された、ギリシャ共和国を主として管轄する正教会(ギリシャ「国」正教会)(Church of Greece) を指す名称でもあるため、文脈に注意する必要がある。
東方正教会の信仰把握においては、信徒個人の実践である信仰と、信徒の団体である教会が伝承しまた実践する信仰が一つにとけあっている。そのために信仰のあり方をいう「正教」と、正教を保持する「正教会」の二概念が、ほぼ等値なものとして使われることがある。
[編集] 教義と教会の特徴
聖書や七つの公会の決定などを含む聖伝承(Holy Tradition)を信仰の基準とした神学を有す。ニカイア・コンスタンチノープル信経(単に「信経」とも)を告白する。ほかニカイア信経、ハリファゲン信経(カルケドン信条)を承認する。
聖神の発出は父からのみとする(フィリオクェ問題参照)、また聖画像敬拝(崇敬)を重視し、聖画像の形式を厳格に遵守する。聖画像の形式は聖伝承のうちであり、画家による恣意的な変更は許されない。領聖は必ず聖体と尊血の両方でおこない、聖餅(聖パン)にはイーストを用いる。
古代教会スラヴ語などの聖書と奉神礼の現地語化を重視するが、一方で奉神礼の構成は、ほぼ全世界的に共通する。マリア論では「無原罪懐胎」説を承認しない。また司祭および輔祭の妻帯を認めていることなども西方教会と異なる点である。
教会はハリストス・イイススを頭とし、聖神の導きのもとでハリストスの体である教会全体が歩んでゆくものである。コンスタンチノポリス総主教(世界総主教)を名誉上の首位と認めるものの各首座主教や各主教が自立した主教区を管轄する。いかなる限定や条件付きでも一主教・一首座主教が教義に関して無謬の宣言を出すことは承認しない。したがってカトリックの採用する教皇首位権や教皇不可謬説はこれを認めない。
ただし、今日の正教会は五大陸にまたがり、それぞれの特徴があり、また西方典礼(アングリカン様式、ローマ様式その他)やビザンチン典礼以外の東方典礼などさまざまな伝統(traditions)が共通の信仰のもとにも正教会の中に包摂されている。
神品の妻帯についていえば、古代には主教の妻帯も認められていた。ナジアンスのグレゴリイ(ナジアンゾスのグレゴリオス)の父は妻子がある身でナジアンゾスの主教職を務めた。中世以降は修道士のみが主教に任ぜられるため、主教の妻帯は事実上禁止されている。また司祭の妻帯は輔祭叙聖(叙階)時にすでに妻帯しているものにのみ認められ、輔祭職以上の教役者の新たな結婚は、再婚を含め禁止されている。
なお現在ではコンスタンティノポリスとローマの相互破門状態は相互撤廃されたが、これによって完全な一致が回復したわけではない。未解決の教理上の問題を双方が検討しあい、和解と一致に向かって進み始める第一歩が開かれ、今日もその対話が継続中という段階にある。よって、信仰上の完全な一致が成立していない現段階では、正教会では信徒のローマ・カトリック教会での領聖(聖体拝領、倍餐)、およびローマ教会信徒の東方正教会での領聖を認めていない。コプト正教会などの非「正統」信仰教会との交流もなされているが、ローマ教会と同様、他教会信徒の領聖は認められない。
[編集] 信仰の源泉
正教会の信仰の源泉は「聖伝」(せいでん、Holy Tradition)である。聖伝は、ハリストス(キリスト)自身から使徒たちを通じて教会に今日まで流れ受け継がれて守られてきたハリストスの福音、福音的生命、生活でもある。聖伝を過去から受け継ぎ、実践し、未来へと継承する教会は、「ハリストスの体」であり「聖霊が臨在」されハリストスの生命と聖霊に生かされていく。正教徒にとって、聖伝は干からびた形式や化石的な儀礼の集積ではなく、今日も正教会の信仰生活を導く生きた伝承(Living Tradition)として機能している。
「聖伝」は、特定の民族性や文化、典礼様式に内包され内在するものではない。特に今日の正教会は全世界に広がり、それぞれの民族や地域の特徴を帯びている。このようなさまざまの様式、特徴、言語、典礼様式などの諸伝統(traditions)は、唯一の信仰、「聖伝」(Tradition)と矛盾はしない。福音は、民族や各地域の文化や伝統に光を当て、変容させる。それぞれの地域や時代の教会も同様である。しかし福音は、特定の民族性や文化にのみ身を籍ったり内在化するのではない。よって、特定の文化、民族性に固有の特徴、ましてや国家を正教性と同一視することはできないし、普遍的な「正教文化」なるものが存在するわけでもない。
「聖伝」の核心は「聖書」である(下記「聖書の扱い」の項を参照)。次のようなものが聖伝中重要な要素となる。
[編集] 聖書の扱い
聖書は聖伝の中から生まれ、聖伝の中核をなすものと正教会では考える。聖書に並ぶ権威を持つ文書や伝承は存在しない。聖書は聖伝の基礎であり、聖伝を確証する基準でもあり、聖伝中の聖伝といえる。このため聖伝を保持する教会のなかで読まれるとき、はじめて聖書の正しい理解が可能になると考える。
正教会で用いる旧約聖書の底本は今日二種類ある。ユダヤ人が伝承したマソラ本文版と、ギリシャ語に翻訳された七十人訳聖書である。七十人訳は使徒たち、初代・古代教会の教父たちも用い、教会の中で広く用いられてきたという歴史がある。この二つの旧約聖書は、細部では少なからぬ相違もあるが、教会はこの二つの伝承を、ともに「旧約聖書」として受け入れている。一説に正教会は七十人訳しか承認しないとも言われるが、誤りである。(マソラにない部分については、教会によって諸見解がある)
奉神礼では一年を周期として新約聖書が通読されるが、黙示録は朗読されない。 旧約聖書は聖詠経(詩篇)が随所で朗読・歌唱される。その他、大斎期間、イサイヤ書(イザヤ書)、創世記、箴言が通読される。また大斎期には聖詠経全文が合せて二回通読されることになる。 旧約聖書からの朗読は多く祭日の前日の晩課においてなされる。これをパレミヤといい、特に復活祭・降誕祭・神現祭・旧約の聖人を記憶する祭には多くの箇所が朗読される。 また聖詠経の中の語彙を用いて、新約の信仰に一致するようにアレンジして祈祷文が編集されることも多い。
[編集] 日本語の正教会訳聖書
日本においては、明治時代にニコライと中井らにより「新約聖書」が全訳された。今日も用いられている『我等の主イイスス・ハリストスの新約』である。教会スラブ語聖書を底本に、ギリシャ語、欽定訳聖書、漢訳なども参照しつつ翻訳されたもので、日本正教会では今日も奉神礼ではこの翻訳のみが使用される。 旧約部分については奉神礼で頻繁に使われる聖詠(詩篇)が『聖詠経』として全訳されたが、他の部分については、各祈祷書の旧約朗読箇所(パレミヤ等)の部分的な訳のみにとどまり、全訳は完成されず今に至っている。旧約部分の翻訳は七十人訳ないし七十人訳のスラブ語訳からの訳ではなく、マソラ本文を基礎として七十人訳も勘案して訳された、ロシア正教会シノド版ロシア語旧約聖書からの訳であることが判明している。
[編集] 斎(ものいみ)について
東方正教会の教義で、信仰生活に直結し、西方教会と著しい対比をなすもののひとつが「斎」(断食)の厳守である。斎は主に食物摂取の規定であるが、斎の期間は他の遊興なども控えることが勧められている。 斎についてのキリスト教文書の最古の規定は19世紀にコンスタンティノポリス総主教庁図書室で発見された1世紀の文書『ディダケー』(十二使徒の教え)である。斎の習慣はユダヤ教から継承されたものであり、古代には東西を問わず守られていた。 斎は祭と表裏一体をなす。大きな祭には必ず厳格な斎がその前に義務付けられる。正教徒の生活は斎と祭によってリズムをつけられているといえる。
[編集] 斎の種類
斎の規定は食品を以下のように分類する。
斎は程度に応じてこれらの食品を禁止または許可するものである。 もっとも厳格な斎は、肉、魚、乾酪、酒、オリーブ油を禁食するものである。明示的に禁止されているのはぶどう酒であるが、他の酒類も避けるのが通例である。これに対して、オリーブ油以外を避けなければいけないかどうかは、論者により分かれる。
最も厳格な斎は次の時になされる。
これに対して、祭および他の定められた時節には、斎が解禁される。
- 光明週間(復活大祭につづく週) この期間はむしろ斎が「禁止」されている。
- 税吏とファリセイの主日につづく週
- 乾酪の主日につづく週 ただし肉類は禁止される
また大斎中の主日には酒とオリーブ油、生神女福音祭が大斎期間にある場合には加えて魚が許される。
[編集] 斎の期間
もっとも期間の長い斎は大斎である。土日を除く8週間、合計四十日が最も厳しい斎に充てられる。詳細は大斎の項を参照。
これに対して短い斎は、水・金曜日および定められた祭の前の一日の斎である。領聖前の禁食を斎とみなすならば、半日に満たない斎期間もあるといえる。
これらの中間に
- 使徒の斎(聖神降誕祭の次の主日からペトル・パウェル祭まで)
- 生神女就寝祭の斎(生神女就寝祭まで)
- フィリップの斎(使徒フィリップの記憶日から降誕祭まで)
などの比較的長期にわたる斎がある。
[編集] 祭
関連項目:教会暦
東方正教会の信仰生活は、1年を周期として組み立てられている。その節目をなすのが祭である。
禁欲と節制の時期である斎に対して、祭期は喜びをもって迎えられる。 毎週の主日の聖体礼儀のほか、正教会には小祭・中祭・大祭等の三種類の祭日がある。 大祭は復活大祭および十二大祭とからなる。これに対して、聖人の記憶日などは中祭または小祭にあたる。 大祭、中祭・小祭の祝い方は各教会によって異なる。 基本的に祭日は移動されないが、小教区の教会などでは信者の便宜を図り、一部の祭日を近い主日に移動させて祝うことも行われる。
なお、正教会の多くはユリウス暦を使用しており、グレゴリウス暦を使用している西方の教会とは祭を行う日が異なることが多い。またかつては世界創造紀元という、いわゆる「西暦」とは違う紀元を使用していた。
[編集] 復活大祭
本項目:復活大祭
復活大祭とは西方教会の復活祭(イースター)に相当する東方正教会最大の祝祭日であり、他教派に比べ典雅華麗になる傾向がある。 それは「祭の祭」「祝いの祝い」とも称される。
復活大祭当日の深夜、聖職者が「ハリストス復活!」と告げると、信徒は「実に復活!」と応答し、復活の賛歌「ハリストス死より復活し、死をもって死を滅ぼし、墓にある者に生命を賜えり」を唱和するならわしがある。地域によっては、聖歌を数時間にわたって歌い続け、徹夜祷となることもある。
[編集] 十二大祭
移動祭日は復活大祭の日付を基準として決められる。他は固定祭日である。ユリウス暦上での日付を採用するため、対応する祭があるものは、カトリックと同じ日付である(ただしグレゴリオ暦上の日付は異なる)。主の降誕祭に限り、教会によってグレゴリオ暦の12月25日におこなうところもある。
☆移動祭日
[編集] 東方正教会に所属する教会
- コンスタンティノープル総主教庁(エキュメニカル総主教庁)
- アレクサンドリア総主教庁
- アンティオケイア総主教庁
- エルサレム総主教庁
- グルジア正教会(グルジア総主教庁)
- セルビア正教会(セルビア総主教庁)
- ブルガリア正教会(ブルガリア総主教庁)
- ロシア正教会(モスクワ総主教庁)
- ルーマニア正教会(ルーマニア総主教庁)
- ギリシャ正教会
- キプロス正教会
- アルバニア正教会
- ポーランド正教会
- 日本ハリストス正教会
- アメリカ正教会
- アメリカ自治正教会(元アンティオケア総主教区アメリカ管区)
- チェコ・スロバキア自治正教会
- フィンランド自治正教会
- シナイ(山)正教会
- など
[編集] 沿革
キリスト教の歴史を参照のこと
古代には、ローマ帝国の管区をもとに、キリスト教会は4世紀頃から5つの総主教区――ローマ(ロマ)、コンスタンティノポリス(コンスタンティノポリ)、アンティオケイア(アンティオキア)、アレクサンドリア、エルサレム(イエルサリム)――に分かれていた。このうちローマを除く4教会、およびグルジア教会が、東方正教会のもっとも古い教会として現在まで続いている。現在もっとも信徒数が多いのはロシア正教会であり、ルーマニア正教会がこれに次ぐ。
[編集] ローマ帝国の国教
4世紀、ローマ帝国はミラノ勅令でキリスト教の信仰を公認した。キリスト教はさらに国教となり、ローマの多神教にとってかわった。当時、キリスト教の中心は、ラテン語地域のローマ、ギリシア語地域のシリアのアンティオケイアおよびエジプトのアレクサンドリアにあったが、新首都コンスタンティノポリスの教会は、旧首都ローマに次ぐ第二位の序列を認められた。
キリスト教を認めたのちのローマ帝国は、国内の安定と一体性の基盤としての宗教の役割を重視し、教会一般を庇護するにとどまらず、教会の人事や教義に直接かかわることも多かった。帝国分離後の東ローマ帝国もこの政策を踏襲した。一方西ローマ帝国は早くに滅び、その後西欧世界を支配したゲルマン系諸部族は必ずしもキリスト教を信仰しなかったため、西方のラテン語教会は国家の庇護をほとんど期待することができなかった。西ローマ帝国滅亡後、西方世界にも名目上は東ローマ帝国皇帝の主権が及んでいたが、実際の統治権が及ぶことはまれであった。このため西ローマ帝国滅亡後、ローマ教会の長であるローマ教皇に西方世界の行政権が認められた。このことは、西方教会の自立と組織化を促した一方、のちの東西分裂を準備することにもなった。
古代の教会にはたびたび教義に関する論争が起き、歴代の皇帝はそのつどあるいは二派の融和を図り、会議を招集し、あるいは一方を正統とし他方を排除する命令を出した。全教会が召集されるものを全地公会(公会議)といい、その決定は全教会に適応された。一方、地方で行われた会議を地方公会ないし教会会議といい、その決定はその地方に適応された。ただし教義に関する地方公会の決定も、基本的には尊重され、他の地域に受け入れられていった。そのような重要な地方公会の決定としては、4世紀のカルタゴ教会会議における新約聖書の範囲の確定などがある。
5世紀に単性論がエジプトを中心に盛んになり、アレクサンドリアでは二派がそれぞれ独自に主教を擁立する事態に至った。単性論問題は教義論争の枠を超え、皇帝の側近をもまきこむ教会内の政争に発展し、これを収拾するため451年召集されたカルケドン公会議(ハリファゲン全地公会)は、単性論を異端として退けた。このとき単性論論者は、己を排斥した両性論者を「メルキテス」(皇帝派)と呼んだ。異端として排除され独自の教会をたてた東方の諸教会を総称して反メルキト派というのはこれに由来する。アンティオケイアでも単性論教会が分立した。東方正教会がメルキト派を自称することはほとんどなかったが、東方正教会は東ローマ帝国の国教として栄えていった。その象徴的建造物が6世紀コンスタンティノポリスに建造された聖ソフィア大聖堂である。現在でも世界最大級の大きさをもつこの教会には、1453年の東ローマ帝国滅亡までコンスタンティノポリス総主教座がおかれた。
[編集] イスラム教の台頭と聖像破壊論争
7世紀にイスラム教が成立すると、アンティオケイア、アレクサンドリア、エルサレムの三主教座を含む地域はイスラム教徒の支配域に入った。キリスト教徒は信仰を許されたものの、二級市民の扱いを受けた。これにより、キリスト教圏に残ったのはローマとコンスタンティノポリスだけとなり、ローマ皇帝の座所でもあるコンスタンティノポリス教会の権威が強くなった。
イスラム教は、礼拝に像を用いることを厳しく禁じた。このため礼拝に聖像を用いるキリスト教を偶像崇拝であると非難した。この非難はイスラム教徒から始められたものであったが、偶像拒否はキリスト教の教義にもあり、小アジア(現在のトルコ南部)を中心に一部のキリスト教理論家は礼拝から一切の像を退けるべきだと考えるにいたった。8世紀に入りこの主張は公然となされるようになり、大規模な聖像破壊運動に発展した。聖像破壊主義は伝統的な聖像崇敬と衝突するため教会を二分する論争になったが、皇帝レオーン3世は聖像破壊主義を支持し、726年聖像破壊令を出した。レオーン3世と息子のコンスタンティノス5世は2代に渡って聖像破壊主義を取り、反対者を追放あるいは投獄し、あるいはその拠点である修道院を没収した。修道士はイコン崇敬を実践また奨励したのみならず、修道院は聖像制作の場であったため、これは聖像崇敬そのものに対する大きな打撃となった。これに対し、聖像破壊運動が及んでいなかった西方教会に助けを求め、西方に逃亡した聖職者たちもあった。一般信徒、ことに首都コンスタンティノポリスや帝国のヨーロッパ側では聖像破壊運動をほとんど支持せず、修道士や信徒などは広範な抵抗をみせ、反乱が起きた地方もあった。787年、皇后エイレーネーは事態を収拾するため第七全地公会を召集した。全地公会は聖像使用の教義を確認し、聖像破壊主義を否定した。
[編集] 東西の分裂
8世紀から12世紀にかけて、フランク王国を中心とする西ヨーロッパの独自の発展に伴い、ロマ総主教(教皇)を首座とする西ヨーロッパ・北アフリカ管轄地方教会(のちのカトリック)は、その他の地方諸教会との交わりから徐々に離れるようになった。聖像破壊運動においてローマ教皇と東ローマ皇帝が対立したことが、この離間に拍車をかけた。西方教会管轄地にはもとより自治が許されていたが、800年、ローマ教皇はフランク王カールを「ローマ皇帝」として戴冠し、東ローマ帝国からの完全な政治的独立を主張するにいたる。
東西交流の衰退は西方における教義の独自な発展を促し、両教会の教義上の差異は問題となるまでに著しく開いた(フィリオクェ問題参照)。1054年、コンスタンティノポリ総主教(エキュメニカル総主教)とロマ総主教座=ロマ教皇(ローマ教皇)は、ローマ教皇の権威・権限や、エキュメニカル総主教の称号が意味する権威についての理解の差が使節交換の際に顕現した事がきっかけになり、「相互破門」した。これを東西分裂、または大シスマなどと呼ぶ。しかしこの時の分裂は決定的なものとは云い難く、東西教会の交流がこの相互破門を境にして唐突に断絶したと考えるのは誤りである。この事件の前後に西方教会でローマ教皇が永眠している事や、東方教会に対する破門が西方教会使節であったフンベルトの独断であった面が強かった事を鑑みると、そもそも破門が破門として有効であったのかどうかすらも疑わしい。東方正教会側は、「正教会は使節:フンベルト一行のみを破門した」と捉えてきた。
むしろ決定的分裂年代は、1204年の第四回十字軍に求められるべきである、とするのが現代の専門家の間の有力説であり、これまでの教科書的世界史理解の見直しが必要であろう。
その後、幾度か和解の試みがなされたが、完全な教義上の一致をみるには至っていない。むしろ和解のための対話は、かえって細部における両教会の差異の固定化につながっていった。このような対立の深まりは、両教会の政治上の緊張の深まりを反映している。そのような緊張の原因としては十字軍による東方世界の破壊と略奪が挙げられる。十字軍は占領地の小アジア=アナトリアやパレスチナ、(現レバノンを含む)シリアにおいて、暴力によるラテン典礼の押し付け、および教会機構の簒奪・支配を行なった。すでに第一次十字軍においても、十字軍による東方正教会信徒の殺害が行われ、エルサレム総主教が追放され、カトリックによる司教の任命が行われた。1204年の第四次十字軍は東方正教会の首座教会があるコンスタンティノポリスを陥落させて略奪・虐殺行為を行い、ここでもラテン典礼の押し付けをおこなった。こうしたローマカトリック勢力による暴力は、東方正教会信徒の間にローマカトリックに対する根強い不信感を植え付けることとなった。
また、1453年のコンスタンティノポリス陥落に際しては、フェラーラ・フィレンツェ会議で援軍の派遣を決議しておきながら、(西欧内で諸国の内紛があったことも影響したとはいえ)事実上見殺しにした。さらに、ロシアなど東欧一帯で、この公会議でカトリックの教義を受け入れることを主張したものが、破門されてカトリックに走り、東方正教会の勢力圏内であったウクライナなどに教皇庁の支配を受けるユニア教会(東方典礼カトリック教会)がおかれた。これは当時の東方正教会側からみれば、分断を固定化するとともに、その土地での東方正教会の管轄権を否定する行為であり、「ローマカトリック教会は対話や交渉に値しない」という印象を与えることとなった。現在もロシア正教会はローマ教皇庁との対話の条件として、ユニア教会がロシア教会側に復帰することを求めている。カトリックが対抗宗教改革の一環として、16世紀以降に東欧や東地中海地域での東方典礼カトリック教会の設立を進めたことも、さらに両教会の角逐を深めた。なおバルト海沿岸ではこれにルター派教会の宣教も加わり、東西教会の緊張は複雑な様相をみせた。
こうした長年の政治的緊張は、教義上の対立以上に、東西の教会一致に決定的な痛手と否定的作用をもたらした。2003年の教皇ヨハネ・パウロ2世のギリシャ訪問の際、十字軍の略奪についての謝罪があり、正教世界の感動を呼んだことは記憶に新しいが、東西教会間の問題はなお山積している。なお相互破門状態は1965年12月に取り消され、相互理解と和解に向かって双方が歩み始める出発点となった(但し先述の通り「相互破門」はそもそも破門として有効であったのかどうか疑わしい程度のものであり、解決が比較的容易な問題であったとも言える)。
しかし保守派の現ローマ教皇ベネディクト16世は、就任早々にローマ教会の主導権を主張したために、正教側の反発を受けている。教皇首位権はそれぞれが自立している正教会の諸教会には到底受け入れられるものではなく、東西教会の再統一にはまだまだ克服すべき障壁が多いのが現状である。
[編集] スラヴへの宣教
コンスタンティノープルからは、スラヴ地域への宣教がなされた。
9世紀にギリシア人宣教師キュリロス(キリル)とメトディオス(メフォディ)の兄弟は、無文字言語であったスラヴ語のために文字を考案し、聖書や祈祷書をスラヴ語に翻訳した。かれらの翻訳したスラヴ語を教会スラヴ語といい、今日もスラヴ語圏の教会では、このときの翻訳が礼拝で使われている。またキュリロスが考案したグラゴール文字は、彼の名を冠したキリル文字へ発展し、スラヴ文化の形成に大きく寄与した。
二人とその弟子たちにより、モラヴィア、セルビアに宣教がなされた。ただしモラヴィアではローマ教皇から派遣されたフランク族の宣教師と対立し、追い出されることになった。
トルコ系の遊牧民族ブルガール人がアジアより移住し、7世紀末にブルガリア帝国を建てていたブルガリアにも、870年に正教会が建立された。ブルガリアでもスラヴ語典礼が行われた。もともと数の少なかったブルガール人は、スラヴ人と同化し、11世紀頃までに吸収されていった。ブルガリアの支配下にあった現在のルーマニアは、古代から東方正教会に属しており、ラテン語から発展した言語が使われていたが、ここにも、スラヴ語典礼が強制された。
10世紀にはキエフ大公国のウラジーミル1世が改宗し、キリスト教を国教としたことでロシア(ルーシ)正教会が成立した。ウラジーミル1世の改宗は、現在のウクライナ、ベラルーシ、ロシアがキリスト教化される端緒となった。
のちに、モンゴル帝国やオスマン帝国との対峙を経て、東方正教会の信仰と典礼は、スラヴ民族が民族的一体性を自覚し、また深めていく上で、大きな役割を果たすことになる。
[編集] 静寂主義の誕生
もともと東方正教会には神秘思想的傾向が強かったのであるが、この流れを決定的にしたのは14世紀のグレゴリオス・パラマス(グレゴリイ・パラマ)である。14世紀初頭、恩寵の非被造性を説き、非被造の恩寵が人間を照らし、神の働きを知ることへと導くとした。そして霊的な指導のもと、徹底した、しかし機械的でない祈り、「祈らずして祈る」者のみが、神の作られざる恩寵の光に与り、恩寵によって神の性質と等しいものになる(テオーシス、神成、en:Theosis)と説いた。これを静寂主義(キエティズム)という。この教えは正教の公式の教義となり、またそのような祈りのために「イエスの祈り」と呼ばれる短い祈祷文が定着した。この祈りは「主イイスス・ハリストス、神の子や、我罪人を憐れみ給へ」という短い章句を繰り返すもので、修道士らによって伝播し、今日でも広く行われている。
[編集] オスマン帝国・ロシア帝国と東方正教会
オスマン帝国が東ローマ帝国を蚕食していった時期は、ロシアではモンゴル帝国の影響が強く、キエフ大公国が衰え新興のモスクワ大公国が進出する時期にあたっている。1329年、ロシア大主教座は現在のモスクワに移転した。
1453年のコンスタンティノポリス陥落後、モスクワは「正教最後の砦」を自称する。また1547年以降、モスクワ大公はロシア皇帝を自称する。首都モスクワは「第3のローマ」「第3のエルサレム」と呼ばれた。このような宗教と結びついた民族意識の高揚は、一面で民族の結束につながる一方、選民意識と他民族の土地への領土拡大を正当化する意識をロシア人に与えることともなった。1589年、ロシア正教会は独立教会となり、モスクワ総主教のもと、コンスタンティノポリスの支配を離れた。
ロシア正教会は帝国の国教とされ、カトリックなど他の宗派の活動は制限された。反面ピョートル1世ら皇帝の正教会への介入と統制は、正教会史上類をみない厳しいものであった。ピョートル1世は西欧化政策を教会にも及ぼし、北欧のプロテスタント国の国教制度にならう統制制度を導入した。1700年にモスクワ総主教アドリアンが没すると、後任をおくことを禁じ、皇帝が直接任命する聖務会院をかわって設置した。また1721年には総主教制を廃止し、聖務会院が教会と修道院を管理するとした。この体制はロシア革命が起こる1917年まで続いた。国家の介入は高位聖職者にもおよび、また修道院の閉鎖と財産の国有化が推し進められた。ドイツ出身のエカチェリーナ2世も、教会への統制を厳しくした。この統制のもとで、ロシア教会は精神的に荒廃したとしばしばいわれる。この荒廃の時期は18世紀末まで続き、後述する『フィロカリア』の紹介を中心とした静寂主義が修道院を拠点に広まったことで、ロシア正教会の信仰生活は復興したといわれる。
一方、オスマン帝国はキリスト教の信仰の自由を認め、教会財産を尊重したが、教会の活動は布教を中心に制限され、信徒は庇護民としてイスラム教徒より社会的に劣った身分におかれた。また帝国領内での神学教育は禁止された。このため聖職者の養成は、ローマなど西方に留学して神学を学ぶことにより行われた。これは東方正教会のなかにローマカトリックの影響を強めることになった。
1782年、ギリシアで聖歌集『フィロカリア』が出版された。タイトルはギリシア語で「美を愛する」を意味し、ここでいう美とは神のことである。アトス山の修道士ニコディム・アギオリトとコリント主教マカリーの編纂したこの聖歌集は、東方正教会の伝統である神秘思想・静寂主義を、美しくわかりやすい表現に移し、一般の信徒が日々の礼拝のなかで接することのできる形を与えた。『フィロカリア』は各国の言語に訳され、全東方正教会に広まり、停滞していた教会内で信仰の再興につながった。『フィロカリア』は現在でも東方正教会が共有する精神財として、世界各地の正教会で使われている(日本語への部分訳あり、ただし正教会による翻訳ではない。エンデルレ書店より刊行)。
フランス革命後のヨーロッパでの民族主義の高揚は、正教世界にもおよび、19世紀半ばからヨーロッパのオスマン帝国領内では独立運動が相次いだ。これに呼応して、教会の中にも、オスマン帝国の統制下にあるコンスタンティノポリス教会からの独立が志向された。1833年にギリシャ正教会が独立教会を宣言したのにつづき(コンスタンティノポリスは1850年に承認)、セルビア正教会(1879年)、ルーマニア正教会(1885年)、ブルガリア正教会(1860年)が独立教会となった。
また19世紀半ばにはロシア正教会内に東方伝道への積極的な取り組みが生まれた。ロシア領となったシベリアやアラスカでの伝道が積極的になされた。シベリア中部の都市イルクーツクが、拠点となった。イルクーツク近郊出身の神父イヴァン・ベニアミノフは、アリューシャン列島に伝道した。ベニアミノフは文章語としてのアリュート語を確立した人物として知られている。伝道のため、文字をもたなかったアリュート語の正書法を確立し、はじめての文法書を出版し、アリュート人の協力者とともに聖書をはじめとする宗教文書を翻訳した。日本にも、19世紀半ばの開国後、はじめ在函館ロシア領事館付司祭として来日したニコライ司祭(のち大主教)により、正教伝道が行われた。聖ニコライが在外ロシア人のための教会を建設しようとするのではなく、日本人のための正教会を志向したことにもより、この蒔かれた種は1970年に自治教会である日本ハリストス正教会に結実して今日に至っている。
[編集] 二つの革命
オスマン帝国とロシア帝国における第一次世界大戦は、それぞれの終焉をもって終わった。両国家はともに世俗化され、国家の統制下で一定の庇護を受けていた東方正教会は、大きな変化に直面させられた。
トルコ共和国は、コンスタンティノポリス総主教座の存続を許したが、総主教はトルコ国籍に限ると規定した。教会領として保障されていた多くの土地は没収された。またこの当時、コンスタンティノポリス教会の信徒は、ほとんどがオスマン帝国領内カッパドキアなどの、キリスト教信徒が多数派を占める地方に住み、ギリシャ語を話していたが、トルコとギリシャの間で住民交換が行われ、コンスタンティノポリス教会管轄下の信徒は激減した。さらに、ギリシャ領ながらコンスタンティノポリス総主教の管轄下にあったアトス山修道院では、トルコとの住民交換により移住したギリシャ人を住まわせる土地を確保するため、ギリシャ政府が、アトス山の領地を大幅に没収した。このためアトス山は大きく運営に支障をきたすことになった。
より大きな打撃となったのは、ロシア革命によるソビエト連邦政府の成立であった。聖務会議が廃止され、総主教制が復活したが、教会の自律は依然危機にあった。多くの主要な教会や修道院が閉鎖され、国家に財産を没収され、博物館などに転用された。また聖職者や信者が外国のスパイなどの嫌疑で逮捕され、処刑された。モスクワ総主教ティーホンはスターリン政権を認め、一定の協力を行った。第二次世界大戦中、祖国防衛に貢献したとの理由で、教会は合法化されたが、教会の活動は著しく制限されており、信徒は社会生活のうえで不利にたたされた。
またとくに革命の初期、政府の迫害を恐れ、多数の亡命者が出た。ヨーロッパや北アメリカに亡命した信徒や聖職者は、すでに移民していたロシア移民がたてた在外ロシア正教会に拠り、信仰を守った。それによりパリやニューヨークでロシア正教会の神学校がたち、20世紀における神学研究のひとつの中心となった。
[編集] 現代の正教会
現在は伝統的な四大総主教庁のほかに、主に正教徒の多い地域では独立国の単位で独立教会、日本やアメリカのようにある程度の信者数を持つ国では自治教会が立てられている。自治教会は特定の独立教会の管轄と指導のもとで自治を行う。独立教会のうち、古代からの四大総主教に加え、ロシア、グルジア、セルビア、ルーマニア、ブルガリアの各教会の首座が総主教の地位を持つ。
諸正教会は「組織的な一致」にあるのではなく、完全な自律性をもった諸教会が、共通の信仰と伝統と霊性において一致のもとに、相互に教会の自立を承認しあった緩やかな連合を保っている。各主教には序列が定められているが、これは席次や祈祷において名を挙げる順序などの、純粋に名誉上の序列であり、教義にかかわるものではない。コンスタンティノポリス総主教は伝統的にエキュメニカル総主教(世界総主教)という称号を有し、正教会における名誉上の第一位の主教として認められている。古代の規定では名誉上の第一位の主教であるローマ主教座が正教諸教会の交わりから離れたことから、このように称する。しかし東方正教会におけるエキュメニカル総主教は、世界の諸正教会の上に何らかの権限を有するものではなく、名誉上の地位である。したがって教皇首位権を主張するローマ教皇とは、首位の意味が異なる(ローマ教皇も正教会的な見方では、諸主教の一人、地方教会の首座である諸総主教の一人、ということになる。ローマカトリック教会も、地方教会のひとつに他ならない)。
ロシアやセルビアといった旧共産圏では、1990年代の共産党政権の退陣後、国家の統制が取り払われたことから、正教会の活動が再び盛んになっている。とくにセルビアでは、紛争の後、元兵士を含め、教会の活動に熱心に参加する青年が増加している。一方で、旧ユーゴスラビアでの紛争の過程で宗教の違いが対立として喧伝された悪影響も否定できない。これはコソヴォなどで特に深刻な問題を引き起こした。また宗教全般への規制が撤廃されたことで、他宗派のとの勢力争いなども見受けられる。とくにロシアでは米国資本に裏付けられた福音派の大量攻勢や、ウクライナなどでの東方典礼カトリック教会の活動も活発になっている。このためロシア正教会は大きく反発し、保守化する傾向を見せている。
アメリカではコンスタンティノポリス管下の教会のほかにロシア正教会系・ギリシャ正教会系・アンティオヒア総主教座系の教会、独立アメリカ正教会(OCA)などがあり、それぞれ協力しあいつつ活発な伝道活動を行っており、これらの諸教会は統合を模索しつつある。現在、これらの教会の共同作業により、新約聖書および聖詠(詩篇)の研究版英訳聖書が刊行されており、七十人訳聖書の研究版英訳聖書も2007年春には刊行される予定である。
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