マキシミリアノ・コルベ
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マキシミリアノ・マリア・コルベ (Maksymilian Maria Kolbe,1894年11月10日 - 1941年8月14日) は、ポーランド人のカトリック司祭。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で餓死刑に選ばれた男の身代わりとなった事で知られ、「アウシュビッツの聖者」といわれる。カトリック教会の聖人で記念日は8月14日。
[編集] 生涯
マキシミリアノ・コルベ(本名ライムンド・コルベ)は1894年にポーランドのドゥンスカボラで生まれた。コンベンツァル聖フランシスコ修道会に入会し、司祭となったコルベは「聖母の騎士」信心会を設立。1927年にはワルシャワの近くに聖母の騎士修道院を創立し、「聖母の騎士」という小冊子を発行してメディアによる宣教に力を入れた。
1930年(昭和5年)にゼノ修道士らと来日すると長崎でもすぐに「聖母の騎士」誌の出版を開始。翌年には聖母の騎士修道院を設立した。1936年(昭和11年)に故国ポーランドへ戻り、以後出版やラジオなどを通じての活発な布教活動を行っていたが、1941年5月にナチスに追われるポーランド人やユダヤ人をかくまった咎で捕らえられ、アウシュビッツの強制収容所に送られた。
1941年7月、脱走者が出たことで、無作為に選ばれる10人が餓死刑に処せられることになった。囚人たちは番号で呼ばれていったが、フランツィシェク・ガヨフニチェクという男が「私には妻子がいる」と叫びだした。ナチスによって10人が連行されようとしたとき、そこにいたコルベは「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出た。ナチスでは反カトリック、反聖職者的な雰囲気が強かったため、この申し出を特別に許可。コルベと9人の囚人が地下牢に押し込められた。
通常、餓死刑に処せられるとその牢内において受刑者たちは飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬのが普通であったが、コルベと9人は互いに励ましあいながら死んでいったといわれている。時折牢内の様子を見に来た看守は、牢内から聞こえる祈りと歌声によって餓死室は聖堂のように感じられた、と証言している。2週間後、コルベを含む4人はまだ息があったため、薬物を注射して殺害された。
1971年に列福され、1982年10月10日に同国出身の教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖された。式典にはコルベに命を助けられたユダヤ人ガヨフニチェクの姿もあった。1998年にはロンドンのウェストミンスター教会の扉に「20世紀の殉教者」の一人としてコルベの像が飾られた。
コルベ神父は、肉体労働者、ジャーナリスト、囚人、薬物中毒者の守護聖人でもある。
[編集] 関連図書
- 無原罪の聖母―M・コルベ神父のことば集・聖母の騎士社 ISBN: 4882160285
- コルベ神父霊的メモ・聖母の騎士社ISBN: 4882162024
- 母への手紙―アウシュヴィツの聖者コルベ神父・ISBN: 4882160056
- コルベ神父物語曽野綾子著・聖母の騎士社ISBN: 4882160013