月山富田城
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月山 | |
通称 |
月山城、富田月山城 |
城郭構造 |
複郭式山城 |
天守構造 |
なし |
築城主 | |
築城年 | |
主な改修者 | |
主な城主 | |
廃城年 | |
遺構 |
石垣、曲輪、堀切、井戸 |
月山富田城(がっさんとだじょう)は、島根県安来市広瀬町富田に所在した城郭。月山(標高197m)に営まれる。
目次 |
[編集] 概要
歴代の出雲国守護職の居城で、戦国時代には大名尼子氏の本拠地となった。尼子氏は中国地方の覇権を巡って周辺諸国と争い尼子経久の代で「11州(11ケ国)の太主」と呼ばれるまでに版図を広げた。その後、城を巡っても度々攻防戦が行われた(詳細は月山富田城の戦い参照)が、最終的に尼子氏は毛利氏によって滅ぼされ、城も毛利領となった。慶長5年(1600年)以降、堀尾氏が城主となるが、慶長16年(1611年)、堀尾忠晴が松江城に移り廃城となった。1934年、国の史跡に指定された。
[編集] 構造
北側を正面とし、山麓部から山頂部へ郭を連ねる。進入路は、北麓の菅谷口(すがたにぐち)からの大手道(おおてみち)、富田橋を渡った正面の御子守口(おこもりぐち)からの搦手道(からめてみち)、南麓の塩谷口(しおだにぐち)からの裏手道(うらてみち)の3か所がある。すべての進入路は山腹の山中御殿に通じ、急峻な一本道「七曲り」で、詰の城である山頂部と結ぶ。
[編集] 山頂部の郭
- 本丸は、月山最高所に位置し、二の丸とは深さ7~8mの堀切で仕切られる。ここに所在する勝日高守神社は城の守護神社で、築城以前から所在したと伝えられる。
- 二の丸は三の丸に続き、遠くに中海を望むことができる。双児井戸跡が残る。
- 三の丸は、袖ヶ平の石垣を隔てた一段上に位置する。
- 袖ヶ平(そでがなり)は、「七曲り」を登りきったところにあり、西方を監視する櫓があったと伝わる。石垣が残る。
- 鉢屋ヶ成(はちやがなり)は、山頂部、本丸の北東側に位置し、尼子経久の富田城奪回に協力した鉢屋氏ゆかりの地とも伝わる。
- 七曲りは、山中御殿平から山頂部へ続く道。かなり急峻で、現在は石畳で舗装されている。途中に堀尾河内守・掃部父子を供養する親子観音、山吹井戸がある。
[編集] 山麓部の郭と門
- 山中御殿平(さんちゅうごてんなり)は、御殿が所在したところで、麓の里御殿に対して山中御殿と呼ばれたものと考えられている。上下2段に分かれており、南側上段に城主の館、北側下段に付属の館があったと伝わる。発掘調査によって建物の基礎とみられる石列が確認されたが、時代は特定されていない。
- 大手門跡(おおてもんあと)は、大手道、搦手道、裏手道が合流する山中御殿平の入口に位置する。高さ5m、幅15mの大手門は、押し寄せる敵を押し返したと伝わるが、崩落して現存しない。この大石垣の下には径2m、深さ3mの軍用大井戸があり、現在でも水が湧いている。
- 花ノ壇(宗松寺平)(そうじょうじなり)は、大手道と搦手道の間、山中御殿平の正面、一段下に位置する。かつて、多くの花が植えられていたことからこの名がついたと言われる。発掘調査をもとに主屋と侍所が復元されている。
- 奥書院平(おくしょいんなり)は、大手道と搦手道の間、太鼓壇と山中御殿平の間に位置する。奥書院があったと伝えられ、現在は戦没者慰霊碑が建っている。
- 太鼓壇(たいこだん)は、千畳平に続く南側の郭で、時と戦を知らせる大太鼓が置かれていたと伝わる。現在、山中鹿介の銅像と尼子氏の碑が建っている。
- 千畳平(せんじょうなり)は、太鼓壇に続く北側の郭で、御子守口の正面に位置し、城兵集合の場として使われたいわれる。北端には尼子神社と櫓跡があり、周囲に石垣が残る。
- 馬場跡(ばばあと)は、太鼓壇・千畳平の北側に位置する。
- 能楽平(のうがくなり)は、御子守口からの搦手道と塩谷口からの裏手道の間に位置する。西端に幸盛井戸がある。
- 御茶庫台(おちゃこだい)は、巌倉寺の奥、西側最下段に位置し、飯梨川に面する。堀尾吉晴の墓と伝わる巨大な五輪塔と、堀尾吉晴の妻の建てた山中鹿介の慰霊碑がある。
- 台東成(だいとうなり)は、裏手道の正面に位置する。石垣が残る。
- 搦手門(からめてもん)は、南側の塩谷口から山中御殿平に続く門で、御殿平の南側に位置する。石垣が残り、尼子経久が塩冶掃部介を襲撃した際には、ここから侵入したと伝えられる。
- 菅谷虎門(すがたにとらもん)は、北側の菅谷口から山中御殿平に続く門で、石垣が残る。
[編集] その他の施設
- 城安寺(じょうあんじ)は、菅谷口にある臨済宗の寺院。雲竜寺と号し、聖観音をまつる。寺伝によると正和年間、源翁和尚の開山という。堀尾忠晴と共に一時、松江に移ったが、のち広瀬に戻ったさらに広瀬藩陣屋の予定地とになったため、現在地に移された。この付近に里御殿があったという。寺にあるある木像広目天立像と木像多聞天立像は、明治36年(1903年)共に重要文化財に指定されている。2体とも高さ95.5㎝、ヒノキの寄木造りで、鎌倉時代の作、本尊の脇侍である。境内には広瀬藩9代藩主松平直諒の墓、また寺宝に直諒の御抱絵師であった堀江友声の描いた富田城絵図や尼子十勇士の絵巻物が伝わる。
- 巌倉寺(いわくらでら)は、御子守口にある真言宗の寺院。睡虎山と号し、聖観音をまつる。縁起では神亀3年(726年)、聖武天皇の命により行基が建立したと伝える。もと月山の南にある高木山を佐々木義清が御子守神社とともに、城内に移したものと伝えられる。本尊の木像の聖観音像は高さ1.8m、ヒノキの一木造りで、脇の帝釈天立像とともに重要文化財に指定されている。また、天正20年(1592年)銘の鉄燈籠は、市指定文化財となっている。
- 御子守神社(おこもりじんじゃ)は、御子守口にある鬼子母神を祀る神社。巌倉寺と同じく、もと高木山にあったものを佐々木義清が、城内に移したものと伝えられる。
- 塩冶興久の墓(えんやおきひさのはか)は、御子守口、道の駅駐車場の裏手に建っている。
- 新宮党館跡(しんぐうとうやかたあと)は、北麓の新宮谷に位置し、尼子氏新宮党の館が置かれた。
[編集] 歴史
[編集] 歴代城主
- 佐々木義清:出雲・隠岐の守護。文治元年(1185年)-。
- 佐々木泰清:出雲・隠岐の守護。
- 佐々木義泰
- 佐々木師泰
- 佐々木秀貞
- 吉田厳覚:佐々木高氏の守護代。興国4年/康永2年(1343年)-。
- 富田秀貞:山名時氏の目代。正平19年/康安4年(1364年)-。
- 山名師義
- 山名時義
- 山名満幸
- 塩冶師高:山名満幸の目代。
- 京極高詮:出雲国守護。元中9年/明徳3年(1392年)-。
- 尼子持久:京極高詮の守護代。応永2年(1395年)-。
- 尼子清定:出雲国守護代。応仁元年(1467年)頃-。
- 尼子経久:出雲国守護代であったが、文明16年(1484年)追放される。同18年(1486年)富田城を占拠、以後勢力を拡大し、11ヶ国を領す。-天文6年(1537年)家督を譲る。
- (塩谷掃部介):出雲国守護代。文明16年(1484年)-同18年(1486年)戦死。
- 尼子晴久:天文6年(1537年)-永禄3年(1560年)急死。
- 尼子義久:永禄3年(1560年)-。永禄9年(1566年)元就率いる毛利軍に攻められ、落城。
- 福原貞俊:毛利氏の城代。
- 口羽通良:毛利氏の城代。
- 天野隆重:毛利氏の城代。永禄10年(1567年)-同12年(1569年)。
- 毛利元秋:城督。永禄12年(1569年)-天正13年(1585年)病没。
- 毛利元康:城督。天正13年(1585年)-同19年(1591年)
- 吉川元春:山陰諸国を総管。
- 吉川広家:豊臣秀吉から東出雲、隠岐、西伯耆12万石を与えられる。天正19年(1591年)-慶長5年(1600年)岩国転封。
- 堀尾吉晴:出雲・隠岐23万5千石領主となり松江城を築く。慶長5年(1600年)-同16年(1611年)病没。
- 堀尾忠晴:慶長16年(1611年)廃城とし、松江城に移る。
[編集] 略年表
- 保元・平治頃、平景清が富田荘に来た時、八幡社を移して、築城したとの伝承あり。
- 文治元年(1185年)、佐々木義清が出雲国守護となり、代々歴任。
- 興国2年/暦応4年(1341年)、出雲佐々木氏の惣領塩冶高貞が幕府の追討を受ける。
- 興国4年/康永2年(1343年)、佐々木高氏(京極氏、道誉)が守護となり、吉田厳覚を守護代とする。
- 吉田厳覚、山名時氏と戦って破れ、当城は山名氏領となる。
- 正平19年/康安4年(1364年)、山名時氏、出雲国守護となる。代々歴任。
- 元中8年/明徳2年(1391年)、山名満幸、明徳の乱で敗れ、再び京極氏が守護となる。
- 元中9年/明徳3年(1392年)、京極高詮は、甥の尼子持久を守護代とする。代々歴任。
- 文明16年(1484年)、守護代尼子経久所領横領により追放され、塩谷掃部介が守護代となる。
- 文明18年(1486年)、尼子経久、不意をついて当城を奪回。
- (尼子経久、勢力を拡大し、尼子氏の全盛期を築く。城域を拡大・整備する。)
- 天文6年(1537年)、尼子経久、孫晴久に家督を譲る。
- 天文10年(1541年)、尼子経久没す。
- 天文12年(1543年)、大内・毛利連合軍に攻められるが、新宮党尼子国久らの奮戦により撃退。
- 天文23年(1554年)、尼子晴久、新宮党を粛清する。
- 永禄3年(1560年)、尼子晴久急死し、義久が家督を継ぐ。
- 永禄8年(1565年)、毛利氏の包囲を受け、篭城。
- 永禄9年(1566年)、兵糧が尽き、開城。義久捕らえられ、安芸国へ送致される。城代として毛利家臣、福原貞俊、口羽通良が居城。
- 永禄10年(1567年)、城代として天野隆重が居城。
- 永禄12年(1569年)、尼子氏旧臣山中鹿介ら尼子再興軍を催して当城を攻めるも、落ちず。
- 元亀元年(1570年)、毛利勢本隊の来援により、尼子再興軍は敗退する。
- (この間は、上記「歴代城主」参照)
- 慶長16年(1611年)、堀尾忠晴が松江城に移り廃城となる。