塩冶興久
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塩冶 興久(えんや おきひさ、明応6年(1497年) - 天文3年(1534年))は尼子氏当主・尼子経久の三男。尼子政久・尼子国久の弟。
武勇に優れ、父や兄とともに各地転戦し、恩賞として出雲国塩冶3000貫をの所領を得た。これにより塩冶姓を名乗った。しかし、3000貫の所領では満足せず、尼子氏重臣の亀井秀綱を通じて所領増加を目論むが拒絶され、亀井秀綱に対して疑念を抱き、ついには1532年、父の経久に対しても反乱を起こすこととなる。
経久は激怒し、すぐさま弟である尼子久幸(義勝)率いる討伐軍を差し向けた。興久は討伐軍に敗北を喫し、塩冶の地を棄てて妻の実家である備後国山内氏を頼って逃亡した。そして山内氏の下で庇護を受けていたが、先行きの不安にさいなまれ、1534年に自刃した。
その首は尼子経久に送られたが、その首を見た経久は自分の行いを悔いて嘆き悲しみ、病床に伏してしまった。嫡子の政久を失っていた尼子経久にとって、可愛い息子である興久を叛乱に追い込んで、結果的には殺してしまった自責の念は深いものであったと思われる。
興久の反乱については所領の問題が原因といわれているが、尼子氏傍流の一門と、重臣との間の対立も原因といわれる。