尼子経久
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尼子 経久(あまご つねひさ、長禄2年11月20日(1458年12月25日) ~ 天文10年11月13日(1541年11月30日))
出雲国(島根県)の戦国大名である。父は出雲国の守護代である尼子清定。弟に尼子久幸。子に尼子政久・尼子国久・塩冶興久ほか。
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[編集] 出雲統一
1478年(文明10)には父から家督を譲られる。しかし野心逞しい経久は幕命を無視し、出雲守護である京極政経の寺社領を横領したために出雲から追放される破目となる。幕府と主家に追放された経久は姿をくらませ、富田城奪還の機会をうかがうこととなる。経久は旧臣の山中氏・亀井氏・真木氏・河副氏らを糾合し、さらに賀麻党も味方につけた。
翌1486年の元日、賀麻党70人は、恒例によって新年を賀す千秋万歳を舞う催しのため富田城中へ招かれた。尼子経久は大晦日から城の裏手に潜み、賀麻党と示し合わせ、その手引きにより城中に切り込んだ。城将塩冶掃部介は妻子を殺害し自らも自害して果てた。
こうして月山富田城(現;島根県安来市広瀬町)を追放された経久は城主に返り咲いたのである。
1488年、経久は三沢氏を降伏させた。これにより三刀屋氏・赤穴氏をはじめ、他の国人も次々と経久の軍門に降り、出雲国内の統一が叶うこととなった。
[編集] 他国への侵略と大内氏との対決
こうして足場を固めながらも安芸国に侵攻し大内氏と干戈を交え、安芸武田氏を大内氏から離反させるなど策謀の限りを尽くし、1512年にも尼子経久は備後国人で大場山城主古志為信の大内氏への反乱を支援している。1518年、経久の弟尼子久幸は伯耆国の南条宗勝を攻め、経久の嫡男政久は阿用城主桜井入道宗的を討った。しかしこの戦いで政久は戦死し、尼子氏の前途に初めて暗雲が漂うこととなる。政久は笛の名手であり、名将として将来を期待されていた人物であり、この死を尼子氏衰退のきっかけと見る向きもある。
1521年以降、石見に侵入し、南下して安芸へもその侵略の手を伸ばす。1523年には、大内氏の安芸国経営の拠点である鏡山城に侵攻し、傘下の毛利元就の調略により落城させている。
1524年、経久は伯耆にも侵略を開始し、敗北した伯耆の国人は因幡や但馬に流浪することとなる。しかしこの年には大内氏の逆襲も始まり、大内義興・義隆父子は陶興房ら重臣を率いて安芸に進出し、尼子軍と戦いを交えた。この大内と尼子の対立の最中、安芸の有力国人である吉田郡山城主毛利元就は、尼子と断って大内氏に属することとなり、尼子氏に傾いていた安芸国での勢力バランスが変わることとなる。毛利氏が大内氏に属した理由は毛利氏の後継争いに介入したことが大きな原因とされている。
[編集] 経久の晩年
1532年、経久の三男で塩冶氏の家督を継いでいた塩冶興久が、尼子氏重臣亀井氏との対立が原因で謀反。これを鎮圧した経久であったが、老境に差し掛かり子に裏切られたことは、その心に大きな傷を残すこととなった。
1537年、経久は家督を孫・晴久に譲る。軽率な晴久に不安を抱きつつ1541年末、月山富田城で死去、享年83。その後まもなく大内氏や毛利氏の反攻が始まることとなった。
[編集] 人物像
北条早雲と並ぶ下剋上の典型とされ、毛利元就、宇喜多直家と並ぶ謀略の天才とも云われ「謀聖(ぼうせい)」・「謀将(ぼうしょう)」とも称された。
一方で経久の人柄を偲ばせる逸話として、『塵塚物語』では経久は家臣が経久の持ち物をほめると、直ちにその物をその家臣に与えてしまうため、家臣たちは気を使って、経久の持ち物をほめず眺めているだけにしたと伝えられる。またある家臣が庭の桜の木なら大丈夫だろう、ということで桜の木をほめたら、経久は木を引っこ抜いて渡そうとしたため、周りがあわてたとも。この物語ではこうした経久のことを「天性無欲正直の人」と評している。
このような逸話は他の戦国大名や武将には伝わっておらず、事実である可能性が高いと思われる。
- 法名:興国院月叟省心大居士
- 墓所:島根県広瀬町の金華山洞光寺。