新庄藩
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新庄藩(しんじょうはん)は、出羽国最上郡と村山郡の一部(現在の山形県新庄市周辺)を支配した藩。居城は新庄城。
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[編集] 藩史
戸沢氏は戦国時代、出羽角館に割拠する小大名に過ぎなかったが、「鬼九郎」と称された勇将・戸沢盛安の代になると勢威を拡大した。しかし盛安は残念なことに小田原征伐に参陣した直後に病に倒れ、24歳の若さで死去してしまった。その盛安の子・戸沢政盛は関ヶ原の戦いで東軍に与したため、存続を許されて所領を常陸松岡藩へ移封されていた。そして元和8年(1622年)、山形藩主であった最上義俊が家中騒動を理由に改易された後を受けて、6万石で入部し、新庄藩を立藩したのである。政盛は当初、最上氏の家臣・鮭延氏の居城であった真室城を居城としていたが、新庄城を築城してここを本拠としたのである。政盛は藩政の基礎を固めるために新田開発や鉱山開発、市場改革などを推し進めた。その結果、寛永2年(1625年)には、領内の収入が6万石から6万8200石となったのである。
慶安3年(1650年)に政盛が死去し、その後を戸沢正誠が継いだ。正誠の時代は60年の長きにわたったために藩政が安定化し、城下町の完成、家臣の新規召し抱えなどの改革も多数行なわれて、新庄藩は最盛期を迎えた。しかし正誠の治世末期から放漫財政のために財政の悪化が見え始める。第3代藩主・戸沢正庸はこのような事態を打開するために厳しい倹約令を敷き、さらに地方整備などの藩政改革に取り組んだが、あまり効果は見られなかった。そして宝暦・天明・天保とこの地方に飢饉が襲いかかるに及んで年貢収納高は激減し、藩財政は破綻寸前となってしまった。この頃の新庄藩の衰退を示すものとして、負債だけでも9万4000両(藩の3、4年分の収入)、人口では最盛期に6万近くを数えたが、この頃では4万5000人にまで落ち込むという有様であった。
このような中で歴代藩主、特に第5代藩主・戸沢正諶や第10代藩主・戸沢正令は財政再建を主とした改革を目指したが、前者は改革に効果が見られず、後者は在位4年にして急死するという不幸から、それぞれ失敗に終わった。しかし正令時代の家老・吉高勘解由が正令の遺志を引き継ぎ、緊縮財政・税制改革・養蚕奨励・新田開発などを主とした嘉永の改革を行なった結果、藩財政は再建されることとなった。
慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と敵対する。そして一時は庄内藩と協力して新政府軍を圧倒したが、まもなく新政府軍の反撃に遭って新庄藩は勝手に戦線を離脱し、幕府軍敗走の一因を作った。これに激怒した庄内藩は新庄藩を敵と見なして新庄城を攻め落とした。このとき、新庄の城下町は灰燼と帰し、藩主の正実らは命からがら秋田藩に落ち延びた。以後、新庄藩は新政府軍が反撃するまでの70日間、庄内藩によって占領された。明治2年(1869年)、正実は裏切り行為による新政府軍優位を作り出した功績を賞されて、1万5000石を加増された。同年6月には版籍奉還により新庄藩知事となる。そして明治4年(1871年)の廃藩置県によって正実は東京に移住し、新庄藩は廃藩となって新庄県となる。そして同年9月、新庄県は山形県に編入されたのであった。
[編集] 歴代藩主
[編集] 戸沢(とざわ)家
- 戸沢政盛(まさもり)<従五位下。右京亮>
- 戸沢正誠(まさのぶ)<従五位下。上総介>
- 戸沢正庸(まさつね)<従五位下。上総介>
- 戸沢正勝(まさかつ)<従五位下。上総介>
- 戸沢正諶(まさのぶ)<従五位下。上総介>
- 戸沢正産(まさただ)<従五位下。上総介>
- 戸沢正良(まさすけ)<従五位下。主計頭>
- 戸沢正親(まさちか)<従五位下。上総介>
- 戸沢正胤(まさたね)<従五位下。右京亮>
- 戸沢正令(まさよし)<従五位下。能登守>
- 戸沢正実(まさざね)<従四位下。上総介>