庄内藩
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庄内藩(しょうないはん)は出羽国庄内(山形県鶴岡市)を領した譜代大名の藩。正式には鶴岡藩(つるおかはん)であり庄内藩は通称である。明治時代初頭に大泉藩(おおいずみはん)と改称した。藩庁は鶴ヶ岡城。枝城として酒田市に亀ヶ崎城を配置した。
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[編集] 藩史
当藩は明治時代まで酒井氏が治めた。藩主家は戦国武将で徳川家康の四天王の一人である酒井忠次の嫡流、左衛門尉酒井氏で譜代の名門の家柄である。
[編集] 初期
関ヶ原の戦い後、現在の山形県の大半を領有した最上氏が元和8年(1622年)3代で改易となり藩領が4分割された。信濃国松代藩より酒井忠勝が3万8千石の加増を受け、庄内に13万8千石で入封し当藩が成立した。当藩の領地は田川郡(現・東田川郡、西田川郡)・飽海郡・村山郡から構成されていた。
寛永9年(1632年)江戸幕府預人・加藤忠広(旧・肥後国熊本藩主)に配所料として領内の丸岡1万石を分与した。代わりに直次(忠勝の弟)の遺領・左沢藩1万2千石が与えられ表高14万石となる。以後、最上氏旧領内4藩の中心的存在となった。
[編集] 中期
庄内平野は米どころで、且つ酒田(現在の酒田市)は北前船の寄港地として栄えたため財政的に裕福なはずであった。しかし、5代・忠寄は正妻を加賀藩・前田氏より迎え、老中として幕閣の一翼を担い、日光東照宮修理の割り当てと出費がかさみ赤字藩へと転落した。
7代・忠徳の代になると借金は20数万両に膨らんだ。ここに酒田の大地主・本間氏当主の本間光丘に藩財政立て直しを委任した。光丘は藩士・農民などの借財の一切を肩代わりし、江戸藩邸の支出を抑えるなど出費の無駄を省き、借金の返済計画を立案・実行させた。また、飢饉に備え備荒籾(備蓄米)を蓄えた。お陰で藩財政は好転するようになった。
[編集] 三方領地替え
財政が好転し、また実収が20万石ともそれ以上ともいわれる庄内に目をつけたのが武蔵川越藩主・松平斉典である。当時川越松平家は度重なる転封で莫大な借財を抱え、また水害等で藩領内が荒廃し財政が逼迫していた。そこで、内実の豊かな庄内への転封を目論んだわけだが、斉典は11代将軍家斉の第二十一子紀五郎(のちの斉省)を養子に迎え、養子縁組のいわば引き出物として、当時、大御所となっていた家斉に庄内転封を所望した。このため、松平を川越から庄内へ、庄内の酒井を越後長岡へ、長岡藩の牧野忠雅を川越へという「三方領地替え」という計画が持ち上がった。
これに対し、天保12年1月20日(1841年2月11日)庄内藩の領民は江戸へ出向き幕府に領地替え取り下げを直訴した。この行動は本来ならば死罪である。また従来、領民の直訴といえば藩政の非を訴えるものであるが、領民による藩主擁護の行動は前代未聞であり、逆に幕府役人より賞賛された。同年7月12日(8月28日)家斉・斉省の死去も伴い幕命は撤回となった。
この三方領地替えの撤回は、後に印旛沼堀割工事の際に、懲罰的な御手伝普請を庄内藩が強いられる遠因となった。
なお、藤沢周平の小説『義民が駆ける』は、この三方領地替えを農民の立場から描いた作品である。
[編集] 幕末~明治時代
元治元年(1864年)江戸市中警護の功により2万7千石を加増され石高は16万7千石に達した。
幕末、上山藩とともに江戸の薩摩藩邸焼き討ち事件を起こし、新政府軍による徳川家武力討伐の口実を作った。 戊辰戦争では会津藩とともに奥羽越列藩同盟の中心勢力の一つとなり明治新政府に抗し、新政府側の新庄藩、秋田藩領内へ侵攻。当時日本一の大地主と言われ庄内藩を財政的に支えた商人本間氏の莫大な献金を元に商人エドワード・スネルからスナイドル銃など最新式兵器を購入。清川口では攻め入る新政府軍を撃退。その後新庄を落とし、秋田へ攻め入った庄内軍は家老酒井玄蕃率いる二番大隊を中心に連戦連勝、新政府軍を圧倒する。明治元年9月26日(1868年11月10日)東北諸藩が続々と新政府に降伏していくのを見て、庄内藩は各地の戦いでここまでほぼ無敗であったものの恭順。12月に公地没収。11代・忠篤は謹慎処分となったが、弟・忠宝が12万石に減封の上、陸奥国会津藩へ、翌明治2年(1869年)6月には磐城平藩へと転封を繰り返した。本間家を中心に藩上士・商人・地主などが明治政府に30万両(当初は70万両の予定だったが揃わず減額が認められた)を献金し、明治3年(1870年)酒井氏は庄内藩へ復帰した。共に列藩同盟の盟主であった会津藩が事実上の取り潰しとなったのと比べ庄内藩は比較的軽い処分で済んだ。これには西郷隆盛の意向があったと言われ、この後庄内では西郷隆盛が敬愛された。明治2年9月29日、藩名は大泉藩と改称された。 尚、当藩出身の著名な人物として志士・清河八郎がいる。
明治4年(1871年)廃藩置県により大泉県となる。後、酒田県・鶴岡県を経て山形県に編入された。
尚、酒井氏は明治17年(1884年)伯爵となり華族に列している。
[編集] 概要
歴代藩主では酒井忠寄(老中)・酒井忠篤が著名。
転封の多い譜代大名にあって、庄内藩酒井氏は転封の危機に晒されはしたものの、江戸幕府による転封が一度もなかった数少ない大名の一つである。当藩は藩史に見られるように藩主・家臣・領民の結束が固い。これは本間光丘による藩政改革に端を発している。この藩政改革以後、領民を厚く保護する政策が基本姿勢となり歴代藩主はこれを踏襲した。領民もこれに感謝の念を抱いていた。このため、他藩にはあまり類のない、領民の運動による三方所替えの危機回避や、明治初頭の藩主呼び戻しの献金などが行われたのである。
[編集] 歴代藩主
- 酒井(さかい)家
13万8千石→14万石→16万7千石→12万石
- 忠勝(ただかつ)〔従四位下・宮内大輔〕13万8千石→14万石
- 忠当(ただまさ)〔従四位下・摂津守〕
- 忠義(ただよし)〔従四位下・左衛門尉〕
- 忠真(ただざね)〔従四位下・左衛門尉〕
- 忠寄(ただより)〔従四位下・左衛門尉、侍従 老中〕
- 忠温(ただあつ)〔従四位下・左衛門尉〕
- 忠徳(ただあり)〔従四位下・左衛門尉〕
- 忠器(ただかた)〔従四位下・左衛門尉、少将〕
- 忠発(ただあき)〔従四位下・左衛門尉、侍従〕
- 忠寛(ただとも)〔従四位下・左衛門尉〕
- 忠篤(ただずみ)〔従四位下・左衛門尉〕16万7千石に加増
- 忠宝(ただみち)〔従五位〕降伏により12万石に減封
[編集] 支藩
[編集] 左沢藩
左沢藩(あてらざわはん)は江戸時代初期に出羽国村山郡左沢(山形県西村山郡大江町)付近を領有した藩。庄内藩の支藩ではないが、ここに列記した。石高1万2千石。左沢に陣屋を構えた。
元和8年(1622年)庄内藩成立と同時に酒井忠勝の弟・直次が村山郡を与えられ立藩した。しかし、直次は寛永7年(1630年)嗣子なく没したため廃藩となった。寛永9年(1632年)に旧領は庄内藩領となった。
- 藩主:酒井直次(さかい なおつぐ)〔従五位下・右近大夫〕
[編集] 大山藩
大山藩(おおやまはん)は江戸時代前期に存在した藩。庄内藩初代藩主・酒井忠勝の7男・忠解が、正保4年(1647年)庄内藩領のうち田川郡内の新田を分与され大山(鶴岡市内)に陣屋を構え立藩した。石高は1万石。
寛文8年(1668年)嗣子の無かった忠解は死去の前に末期養子を願い出たが認められず、藩主死去に伴い廃藩となった。
- 藩主:酒井忠解(さかい ただとき)〔従五位下・備中守〕
[編集] 出羽松山藩
松山藩(まつやまはん)は、庄内藩領より分与された新田を領有した藩。飽海郡松山(山形県酒田市)に居所を構え、廃藩置県まで存在した。石高は2万5千石(立藩時は2万石)。明治2年(1869年)には松嶺藩(まつみねはん)と改称した。
庄内藩初代藩主・酒井忠勝の3男・忠恒が、正保4年(1647年)庄内藩領のうち新田など2万石を分与されたことに始まる。3代・忠休は奏者番を経て若年寄に累進した。このため5千石を加増され、更に城を構えることを許され、以後、藩庁は松山城となった。しかしながら、幕閣に参与したために経費がかさみ藩財政は悪化した。これに対し家臣は隠居を要求したが認められなかった。
幕末には本藩である庄内藩に従い奥羽越列藩同盟に与し明治政府軍に降伏。時の藩主・忠良は藩領のうち2,500石を減封され、隠居を命じられた。
明治4年(1871年)廃藩置県により松嶺県となり、酒田県・鶴岡県を経て山形県に編入された。藩主家は明治17年(1884年)子爵となり華族に列している。
[編集] 歴代藩主
- 酒井(さかい)家
- 忠恒(ただつね)〔従五位下・大学頭〕
- 忠予(ただやす)〔従五位下・石見守〕
- 忠休(ただよし)〔従五位下・石見守 若年寄〕 2万石→2万5千石
- 忠崇(ただたか)〔従五位下・石見守〕
- 忠禮(ただのり)〔従五位下・大学頭〕
- 忠方(ただみち)〔従五位下・石見守〕
- 忠良(ただよし)〔従五位下・大学頭〕
- 忠匡(ただまさ)〔従五位下・大学頭〕 22,500石に減封
[編集] 関連項目
[編集] 庄内藩に関連した小説
- 長門守の陰謀(藤沢周平):初代・忠勝の実弟・長門守忠重が我が子を藩主に据えようと画策した騒動を描いた短編
- 義民が駆ける(藤沢周平):三方領地替えを阻止すべく行動した義民を描いた
- 回天の門(藤沢周平):当藩出身の幕末の志士・清河八郎を描く
- たそがれ清兵衛(藤沢周平)
- 蝉しぐれ(藤沢周平)
なお、藤沢周平の一連の時代小説の多くに登場する架空の藩である海坂藩(うなさかはん)は、庄内藩をモデルにして創作された。