浅野長矩
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 寛文7年8月11日(1667年9月28日) | |||
死没 | 元禄14年3月14日(1701年4月21日) | |||
別名 | 又一郎(又市郎)、犬千代(幼名)。 浅野内匠頭(通称) |
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諡号 | 梅谷 | |||
戒名 | 冷光院殿吹毛玄利大居士 | |||
官位 | 従五位下、内匠頭 | |||
藩 | 播磨赤穂藩主 | |||
氏族 | 浅野氏 | |||
父母 | 父:浅野長友、母:内藤忠政の娘・波知 | |||
兄弟 | 弟:浅野長広(浅野大学) | |||
妻 | 正室:浅野長治の娘 |
浅野 長矩(あさの ながのり)は江戸時代前期の大名。播磨国赤穂藩の第3代藩主。官位は従五位下、内匠頭。受領名から浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)と呼称されることが多い。忠臣蔵における“悲劇の殿様”として、江戸期の最も有名な大名の一人である。
目次 |
[編集] 出生
長矩は、寛文7年(1667年)、時の赤穂藩主・浅野長直の子、浅野長友の長男として生まれた。母は譜代大名の内藤忠政(志摩国鳥羽藩主)の娘・波知(正室)。まさに赤穂浅野家の嫡男たる出生である。幼名の又一郎がそれを物語る(これは祖父・長直、父・長友と同じ幼名である)。
この赤穂浅野家は、広島浅野家の傍流の一つで、浅野長政の三男長重を祖とする家柄である。ことのはじまりは浅野長政が慶長11年(1606年)に、長男幸長の紀伊37万石(のち広島藩42万石)とは別に、自らの隠居料として常陸真壁に5万石を支給されたことであった。慶長16年(1611年)の長政の死去後、この5万石の家督を継いだのは、三男の浅野長重であった。この長重はその後、元和8年(1622年)に笠間藩主に転じ、寛永9年(1632年)に死去。
その嫡男の長直が笠間藩主の地位を相続したが、長直はさらに正保2年(1645年)に赤穂藩主へと転じる。これが赤穂浅野家5万石のはじまりであった。赤穂藩主となった浅野長直は赤穂城築城、城下の上水道の設備、赤穂塩開発などをおこない、赤穂藩の基礎を固めた名君として名を馳せた。その長直の嫡男に長友が生まれ、さらに長友の嫡男として長矩が生まれることになる。
太線は実子、二重線は養子。
徳川家康(初代将軍) 浅野長政(浅野始祖) ∥ ┏━━━┻━━━┓ 女────長重(笠間藩主) 長晟(広島藩主) ┣━━━━━━┓ ┣━━━━━━┓ 大石良勝 長直(赤穂藩主) 女───長治(三次藩主)光晟 ┏━┻━┓ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ ┃ ┏━━━━━┫ 良欽 良重───────女 内藤忠政(鳥羽藩主)┃ ┃ 長照 綱晟 ┃ ┏━━━┫ ┏━━━━━━┳━━╋━━┓ ┃ ┃ ┏━━━┫ 良昭 浅野長恒 浅野長武 安部信友─女 戸田氏西─女 内藤忠勝 女───長友 ┏━━┫ 長澄 綱長 ┃ ┃ ┃ ┏━━━━┫ ┃ ∥ 良雄(大石内蔵助) 安部信峯 戸田氏定 長広 長矩─────阿久里 長照 ┃ (岡部藩主) (大垣藩主) ┃ ∥ ∥ 良金(大石主税) 長純 長広 長澄 ┃ 長延 ∥ 長貞 ┃ 長邦 ┃ 長年 ┃ 長栄
[編集] 生涯
[編集] 運命の日まで
寛文7年(1667年)、浅野長友の長男として江戸に生まれる。寛文11年(1671年)3月に父・長友が藩主に就任したが、その3年後の延宝3年(1675年)1月19日に長友は死去した。
3月25日に長矩が9歳の幼少で浅野家の家督を継ぎ、第3代藩主となる。4月7日には四代将軍徳川家綱に初めて拝謁し、父の遺物備前守家の刀を献上。延宝2年(1675年)閏4月には、浅野因幡守長治(備後国三次藩主)の娘阿久里姫との縁組が取り決められた。延宝8年(1680年)8月18日に従五位下に叙任し、さらに21日には祖父・長直と同じ内匠頭の官職を与えられた。
天和元年(1681年)3月、幕府より江戸神田橋御番を拝命。またこの年の8月23日、15歳にして山鹿素行に入門して山鹿流兵学を学ぶようになる。天和2年(1682年)3月には幕府より朝鮮通信使饗応役の1人に選ばれ、長矩は、来日した通信使の伊趾寛(通政大夫)らを8月9日に伊豆三島にて饗応した。なおこの時三島宿で一緒に饗応にあたっていた大名は、のち赤穂藩が改易された際に城受け取り役となる備中国足守藩主木下肥後守公定であった。
天和3年(1683年)2月には、勅使饗応役を拝命し、3月に江戸下向した花山院定誠・千種有能の饗応にあたった。このときも高家吉良上野介義央が勅使饗応指南役として付いていたが、浅野はこのときの勅使饗応役については無事務め上げている。このお役目の直後、阿久里と正式に結婚。またこの年の6月23日にはじめて所領の赤穂に入り、国家老大石内蔵助良雄と対面した。以降参勤交代で一年交代に江戸と赤穂を行き来する。
貞享元年(1684年)8月の江戸在留中に弟の浅野大学長広とともに連名で山鹿素行に誓書を提出しているが、翌年に素行は江戸で亡くなる。元禄3年(1690年)12月の江戸在留中には本所の火消し大名に任命され、以降、しばしば火消し大名として活躍した。元禄6年(1693年)12月に備中松山藩の水谷家が改易になった際には、その居城備中松山城の城請取役に任じられ、元禄7年(1694年)2月18日に無血で同城を受け取った。その後、大石内蔵助良雄らをここに在番させ、翌年に安藤対馬守重博が新城主として入城するまでの1年半の間、浅野家が松山城を管理した。
また元禄7年(1694年)8月21日、阿久里との間に子がなかったため、弟の浅野長広を仮養子に迎え入れるとともに新田3000石を分知して幕府旗本として独立させ、さらに翌年(1695年)12月には長矩が疱瘡をわずらって一時危篤状態に陥ったため、長広を正式に養嗣子として万が一に備えた。
しかしその後、長矩は容態を持ち直して、元禄9年(1697年)5月に完治。この直後に火消し大名としての活躍から本所材木蔵火番に任じられる。元禄11年(1698年)8月1日に再び神田橋御番を拝命。さらに元禄13年(1700年)6月16日には桜田門御番に転じた。
そして元禄14年(1701年)2月、二度目の勅使饗応役を拝命することとなる。
[編集] 殿中刃傷までの経緯
元禄14年(1701年)2月4日、浅野長矩は、幕府から江戸下向が予定される勅使の饗応役に任じられた。饗応指南役は天和3年(1683年)のお役目の時と同じ吉良義央であった。しかしこのとき吉良は高家のお役目で上京しており、2月29日まで江戸に戻ってこなかった。そのためそれまでの間の25日間は、長矩が自分だけで勅使を迎える準備をせねばならず、この空白の時間が浅野に「吉良は不要」というような意識を持たせ、二人の関係に何かしら影響を与えたのでは、と見るむきもある。
一方、東山天皇の勅使柳原資廉・高野保春、霊元上皇の院使清閑寺熈定の一行は、2月17日に京都を立った。勅使の品川到着の報告を受けて長矩も3月10日に伝奏屋敷入り。そして11日に勅使が伝奏屋敷へ到着した。まず老中土屋政直と高家畠山基玄らが勅使・院使に拝謁し、この際に勅使饗応役の浅野も紹介された。勅使饗応役の任務の始まりである。12日には勅使・院使が登城し、白書院において聖旨・院旨を将軍綱吉に下賜する儀式が執り行われ、13日には将軍主催の能の催しに勅使・院使を招くというイベントが行なわれた。この日までは無事役目をこなしてきた。
運命の3月14日。この日は将軍が先に下された聖旨・院旨に対して奉答するという儀式がおこなわれる幕府の一年間の行事の中でも最も格式高いと位置づけられていた日であった。ところが、儀式直前の午前10時頃、江戸城本丸大廊下(通称松の廊下)にて、吉良義央が旗本梶川与惣兵衛と儀式の打ち合わせをしていたところへ、長矩が背後から近づいてきて、突然吉良義央に対して脇差でもって刃傷に及ぶ。梶川与惣兵衛が書いた「梶川筆記」によれば、この際に浅野は「この間の遺恨覚えたるか」と叫んだという。しかし浅野は本来突く武器で有るはずの脇差で斬りかかった為、義央の額と背中に傷をつけただけで、しかも側にいた梶川与惣兵衛が即座に浅野を取り押さえたために第三撃を加えることはできなかった。騒ぎを見て駆けつけてきた院使饗応役の伊達左京亮宗春や茶坊主達たちも浅野の取り押さえに加わり、高家品川伊氏や畠山義寧らは吉良を別間に運んだ。こうして浅野の刃傷は失敗に終わった。
[編集] 切腹までの経緯
捕らえられた浅野は、幕府目付の多門伝八郎らによって取り調べを受けたが、「多門筆記」によると、長矩は「お上に対する恨みはない。個人的な遺恨である。」とだけ述べ、あとは吉良がどうなったかだけを気にしている様子だったという。これに対して多門は長矩を思いやって「老人であるから長くは持つまい」と答えると長矩に喜びの表情が浮かんだと書いている。午後一時ごろ、奏者番の田村右京大夫(陸奥国一関藩主)の芝愛宕下にあった屋敷にお預けが決まり、田村は急いで自分の屋敷に戻ると、桧川源五・牟岐平右衛門・原田源四郎・菅治左衛門ら一関藩藩士75名を長矩身柄受け取りのために江戸城へ派遣した。午後3時頃、一関藩士らによって網駕籠に乗せられた長矩は、不浄門とされた平川口門より江戸城を出ると田村邸へ送られた。
この間、江戸城では将軍幕臣の間で長矩の処断について話し合われていたが、尊皇心が厚いことで有名な徳川綱吉は朝廷との儀式を台無しにされたことに激怒し、長矩の即日切腹と赤穂浅野家五万石の取り潰しを即断した。「多門筆記」によると、これに多門は反対し、慎重な取調べの必要性を訴えたが、柳沢出羽守保明に退けられたという。ここまで綱吉が浅野の切腹を急いだのは、長矩の処分を断行することで自らの朝廷への恭順の意思を示して綱吉生母桂昌院への従一位下賜がお流れにならないようにしようという政治的意味合いもあったようだ。
田村家でもまさか即日切腹とは思いもよらず、当分の間の預かりと考えていたようで、長矩の座敷のふすまを釘付けにするなどしている。田村邸での長矩は犯罪人であるにもかかわらず煙草や酒を要求したが田村家では茶を飲ませるにとどめた。また、湯漬けを二杯所望したことが記録に残っている。その後、長矩切腹の正検死役として庄田下総守安利(大目付)、副検死役として多門伝八郎、大久保権右衛門らが田村邸に到着し、浅野に切腹と改易を宣告した。一関藩の『内匠頭御預かり一件』によると長矩はこれに対して「今日不調法なる仕方いかようにも仰せ付けられるべき儀を切腹と仰せ付けられ、有りがたく存知奉り候」と答えたと記している。そして長矩は、午後6時頃、幕府検死役の立会いのもと、田村邸庭先にて磯田武大夫(幕府徒目付)の介錯で切腹して果てた。享年35。遺骸は高輪泉岳寺に埋葬された。
「多門筆記」によれば、この際に「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」という辞世を残したとされるが、他の書に長矩が辞世を残したという記述は全くない。刃傷の状況や、先に犯罪人の身であるにもかかわらず酒や煙草を所望したりしているところから歌など詠める精神状態ではなかったものと考えられる。「多門には虚言癖がある」という見方はかなり有力であり、この辞世を疑う説も根強い。また『一関藩内匠頭御預かり一件』の方には、「孤の段、兼ねて知らせ申すべく候得共、今日やむ事を得ず候故、知らせ申さず候、不審に存ず可く候」という謎めいた遺言を長矩の側用人片岡源五右衛門と礒貝十郎左衛門宛てに残したことが記されている。
また多門の取り計らいで最後に一目、片岡源五右衛門が主君長矩と目通りできたとも言われるが、これも「多門筆記」のみに記されていることなので、事実かどうかは微妙なところ。しかし会えたと信じたいところではある。
遺臣大石内蔵助たちのその後はあまりにも有名であるのでここでは省く。
[編集] 刃傷の原因とは
長矩が刃傷に及んだ理由ははっきりとしておらず、長矩自身も多門伝八郎の取調べに「遺恨あり」としか答えておらず、遺恨の内容も語らなかった。そのため後世に様々な説があるが、どれも推測の域を出ていない。 それらの推測で有名なものには次のようなものがある。
対立の原因
- 院使饗応役の伊達宗春より進物が少なかった(諸書)。
- 勅使饗応の予算を浅野家が出し惜しみした(諸書)。
- 赤穂塩の製造技術を吉良に教えなかった(諸書)。
- 吉良が皇位継承問題に介入したため尊皇家の山鹿素行の門下浅野が怒った(元禄快挙別禄)。
- 内匠頭夫人阿久里に吉良が横恋慕した(仮名手本忠臣蔵の影響で広まった)。
- 浅野の美少年な児小姓を吉良が望んだが、浅野が断った(誠忠武鑑)。
- 浅野家秘蔵の茶器を吉良が望んだが、浅野が断った(聴雨窓雑纂)。
“イジメ”の内容
- 勅答の儀の日の礼服は烏帽子大紋なのに長裃でいいと吉良が嘘を教えた。
- 料理について「勅使様の精進日であるから精進料理にせよ」と吉良が嘘を教えた。
- 増上寺への勅使参詣のために畳替えが必要なのに吉良は浅野にだけ教えなかった。
- 浅野の用意した墨絵を吉良は「勅使様に無礼である」として金屏風に変えさせた。
- 浅野は勅使を迎える位置についてたずねたのに吉良は教えてくれなかった。
しかし浅野はこれで二度目の勅使饗応役であったことを考えれば不自然なものが多い。ただ堀部安兵衛の私記には「伝奏屋敷において吉良上野介殿品々悪口致し」という記述があることから墨絵→金屏風説の可能性は若干あるかもしれない。
[編集] 長矩の性格
長矩は生来短気であったといわれる。吉良の手当てをした栗崎道有の「栗崎道有記録」には、浅野長矩は癇癪持ちであったことを記しているし、また長矩は、感情が激した時に胸が苦しくなる「痞(つかえ)」という精神病を持っていたともされる。
幕府隠密が全国の大名の素行を取り調べた“土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)”には長矩について「智有って利発なり。家民の仕置きもよろしい故に、土も百姓も豊かなり」と褒める一方で、「女色好むこと、切なり。故に奸曲のへつらい者、主君の好むところにともなって、色能き婦人を捜し求めだす輩、出頭立身す。いわんや、女縁の輩、時を得て禄をむさぼり、金銀に飽く者多し。昼夜閨にあって戯れ、政道は幼少の時より成長の今に至って、家老に任す」、つまり「長矩は女好きであり、いい女を献上する家臣だけを出世させる。政治は子供の頃から家老に任せている」とも書かれている。
また直接は関係ないのだが、延宝8年(1680年)6月26日には、四代将軍徳川家綱葬儀中の増上寺において長矩の母方の叔父にあたる内藤和泉守忠勝も永井信濃守尚長に対して刃傷に及んで、切腹改易となっている。長矩の母方の血は激情しやすい遺伝子なのかもしれない。
史実の浅野長矩は、忠臣蔵のイメージとは程遠い暴君であった。赤穂は現在でも塩が有名な土地であるが、長矩は塩を専売制として売買を厳しく統制し、重税も相俟った過酷な収奪のゆえに、領民は長矩を憎悪することはなはだしかった。彼が切腹したことが伝わると、領民たちが赤飯を炊いて祝ったと伝えられている。
[編集] 関連項目
- 浅野家第3代赤穂藩主
- 1675~1701
-
- 先代:
- 浅野長友
- 次代:
- 断絶