江沢民
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江沢民 | |
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プロフィール | |
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職業 | {{{occupation}}} |
各種表記 | |
漢字 | 江泽民 |
ピン音 | Jiāng Zémín |
注音符号 | {{{zhuyin}}} |
和名表記 | こう・たくみん |
発音転写 | チアン・ツォーミン |
ラテン文字 | Jiang Zemin |
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中華人民共和国 |
主な出来事 人物 理念 統治機構 |
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江 沢民(こう たくみん、チアン・ツォーミン、江 泽民、Jiāng Zémín。1926年8月17日 - )は、中華人民共和国の政治家。江蘇省揚州市出身。国家主席、中国共産党総書記、国家中央軍事委員会主席を務めた。中国科学院副院長・江綿恒は長男。
江沢民の実父江世俊は、日本軍占領下の江蘇省で日本の特務機関に協力をしていた。叔父江世侯 (上青) は抗日分子と目され、子供のないまま1939年に死亡した。江沢民は、公式にはこの江世侯の養子ということになっているが、江家の長男の長男が養子になるのは極めて不自然であり、「漢奸の息子」という出自を隠すためと考えられている。
1943年 楊州中学卒業後、汪兆銘政権下の南京中央大学に入学し、1946年 上海交通大学に移籍、1947年に卒業した。 中央大学在籍の経歴は隠されることが多い。この間、1946年に中国共産党に入党したことになっているが、この経歴にも疑問がある。 1950年代には機械技術者としてモスクワのスターリン自動車工場で研修を受けた。駐ルーマニア大使や電子工業部部長(大臣)、上海市長、党上海市委員会書記を経て、1989年6月 天安門事件直後の中共13期4中全会で、失脚した趙紫陽の後任として鄧小平に党総書記に抜擢された。ロシア語、ルーマニア語に堪能。日本語も自在に操れるとされるが、公式の場で話したことはない。
総書記就任後は鄧小平の改革開放政策を概ね継承し経済発展を推進した。その一方で、江の任期あたりから中国は大国意識を剥き出しにした対外強硬路線が目立つようになり、1996年には中華民国総統選挙に圧力をかけるため台湾海峡にミサイルを撃ち込んで米軍の緊急展開を招くなど情勢を緊迫させた。他にも同年にCTBT採択直前に駆け込みで核実験を強行し、世界中から非難された。また日本に対しては1998年に来日した際には天皇と当時の小渕恵三首相に過去の歴史に基づいた謝罪要求をしたが、その執拗さに保守派のみならず親中派の反発まで買うことになった。これら以外に野放図な経済発展よる地域間格差や環境破壊などの負の遺産も残し、2002年には総書記を退任した。この際自ら提唱した3つの代表理論が党規約に盛り込まれたが、そのゴリ押し振りに自らを毛沢東・鄧小平に並べるための売名行為との批判が出た。 総書記退任後も「上海閥」の総帥として党最高指導部である政治局常務委員の過半数が自派閥と言われるなど、腹心の曽慶紅らを通して影響力を発揮しているといわれる。 ただし近年では江沢民派の官僚はかなり減少しており、体制は胡錦濤がほぼ掌握していると思われる。
また江以前は、共産党一党独裁のため国家に党が優越し、その権力は党の軍隊である人民解放軍に担保されていたため、国家主席や総書記ですら就任する人物によってはソビエト連邦の最高会議幹部会議長のように半ば名誉職と化していた一方で、無位無官のカリスマ鄧小平が最高実力者であるなど地位と実権が必ずしも一致しなかった。江の代からは最高指導者が国家主席/総書記/党中央軍事委員会主席を兼任して権力を一元化し名実ともに最高指導者が明らかになった。
日本国内では、国家主席在任中に愛国教育を徹底したことは今日の日中関係悪化の遠因となったと指摘する向きもある。日本に対しては歴史認識で執拗に批判しているが、一方ベトナムからの中越戦争の謝罪要求については「もっと未来志向にならなくてはならない」と一蹴した。欧米においては中国の経済発展や外交の改善(江沢民はよく外国を訪問しており、アメリカの二代の大統領であるクリントン、ブッシュとも複数回にわたって会っており、一緒にレジャーを過ごしたこともある)に貢献したとして好評を受けており、「中国を変えた男」として肯定的に評価されている。なお国家主席による首脳外交スタイルが確立したのは江の代からとなる。
なお、2006年8月に発売された江沢民文選によると、1998年8月「(日本に対しては)歴史問題を始終強調し、永遠に話していかなくてはならない」と外国に駐在する大使など外交当局者を集めた会議で指示を出していた。同年11月に中国国家主席として初めて日本を訪れた際は「日本政府による歴史教育が不十分だから、(国民の)不幸な歴史に対する知識が極めて乏しい」と発言して日本の歴史教育を激しく非難している。
- 1989年11月 - 中共13期5中全会で、党中央軍事委員会主席に選出。
- 1990年3月 - 第7期全国人民代表大会第3回会議で、国家中央軍事委員会主席に選出。
- 1993年3月 - 第8期全人代第1回会議で、国家主席に選出。
- 1998年11月 - 中国国家主席として初めて日本を訪れる。(国賓)
- 2000年2月 - 共産党の政権奪取によって階級闘争は終了したとして、永続的な階級闘争を否定する「3つの代表」思想を提起。
- 2002年11月 - 中共16期1中全会で、党総書記を退任(後任は胡錦濤)。
- 2003年3月 - 第10期全人代第1回会議で、国家主席を退任(後任、同)。
- 2004年9月19日 - 中共16期4中全会で、党中央軍事委員会主席を辞任(後任、同)。
[編集] 外部リンク
- 江沢民略歴(外務省)