広州市 (広東省)
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広州(こうしゅう、コワンチョウ。ピン音: Guǎngzhōu )は中華人民共和国南部広東省の省都であり、華南地区全体の行政的中心でもある。副省級市として省と同様の経済的な権限を与えられている。面積7,434平方キロ、人口約713万人。ただし流動人口が約300万程度と推定され、実質の常住人口は約1,000万人とみられる。北京、上海に次ぐ中国第3の大都市。昔から羊城と愛称され、また「花城」「穂城」の名もあり、「穂」と略称される。
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[編集] 地理
広州は珠江デルタ地帯の北部、西江、北江、東江の合流地点に位置する港湾都市である。海からは虎門を入り、獅子洋を遡る。隣接の行政市は仏山、東莞、中山、清遠、恵州である。
[編集] 歴史
古代の百越の地であるが、秦の始皇帝が中国を統一して現在の広州に南海郡番禺県を設置したのが始まりである。秦帝国の崩壊後、漢人官僚・趙佗が南越国を樹立して自立したが、前漢の武帝によって滅ぼされた。漢代には交州に属し、三国呉が広州を分置した。古代から中国の南海貿易の中心地として発展し、唐代半ばの741年には最初の市舶司が設置され、多数のイスラム教徒やユダヤ人が訪れた。外国人居留区である蕃坊もおかれた。唐末の黄巣の乱に際して襲撃を受けて多大な打撃を受けたが復興し、五代十国時代には南漢王国の首都となった。海禁政策を取った明代でも広州は南海諸国の朝貢船入港地となり、清代半ばの1757年からは広州のみが対外開放されて欧米諸国と広東貿易が行われた。この構図は、近代に入り西欧列強の圧力に屈するまで続くことになる。
アヘン戦争中の1841年では一時英軍に占領され、1911年には孫文が広州蜂起を行い、辛亥革命の先駆けとなった。袁世凱の没落後、孫文は1921年越秀山南麓で中華民国大総統に就任し、広州が中華民国の臨時首都となった。1924年には軍閥割拠の中国を統一するため国共合作を行い、黄埔軍官学校を設立、蒋介石が校長となり、周恩来が政治部主任を務めた。この時期には毛沢東も農民運動講習会をこの地で開催している。孫文没後、蒋介石の国民党は共産党と分裂し、1927年共産党は広州コミューンを樹立したが、間もなく国民党軍の侵攻を受けた。蒋介石は1928年に首都を南京に移転している。
中華人民共和国成立後も香港に近い広州は中国の対外貿易港として機能し、毎年春秋には広州交易会(カントン・フェアー)が開催された。1979年鄧小平が対外経済開放政策を取ると、深圳・珠海の経済特区を傘下に収める広州は経済的に急速に発展を遂げた。しかし多数の人口が農村から流入し、治安は悪化している。
[編集] 文化
- 言語 共通語である北京語(普通話)も通用しないわけではないが、広東語(広州話、白話とも)の中心地である。一部で繁体字を用いる他は、基本的に中国国内の他の地域と同様簡体字を用いる。
- 演劇 広東語による伝統劇「粤劇」が伝えられる。
- 料理 「食は広州にあり」という。広東料理の中心地。香港の方が洗練されているかもしれないが、広州が本場である。
[編集] スポーツ
[編集] 行政
行政区域は10市区と2県級市からなる。
- 越秀区
- 海珠区
- 荔湾区
- 天河区
- 白雲区
- 黄埔区
- 羅岡区
- 南沙区
- 花都区 広州白雲空港、東風日産花都工場所在地
- 番禺区
- 従化市
- 増城市
[編集] 教育
- 曁南大学 (1906年創立)
- 中山大学 (1924年創立)
- 華南理工大学
- 広東外語外貿大学
- 華南農業大学 (1909年創立)
- 仲愷農業技術学院 (1927年創立)
- 華南師範大学
- 広州医学院
- 広州中医薬大学
- 広東薬学院
- 広東工業大学
- 広州大学
- 広東商学院
- 星海音楽学院
- 広東技術師範学院
- 広州体育学院
- 広州美術大学
[編集] 交通
[編集] 類似都市名
- 同名の都市に韓国京畿道広州市があり、「クァンジュ」(Gwangju)と読む。
- 同じく韓国の光州とは、漢字を朝鮮語読みした場合同音、中国語では普通話・広東語ともに声調のみが違う発音になる。光州と本市は姉妹都市でもある。
- 韓国では本市を漢字の朝鮮音ではなく音訳で「Gwangjeou」と呼び習わす。
- 口頭の日本語では、杭州市と同音で区別がつかないため、中国音や省名で区別するほか、「広い広州」「杭(くい)の杭州」などと呼び分けられることがある。
[編集] 姉妹都市
広州は以下の都市と姉妹都市である:
[編集] 外部リンク
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