ペルー
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- ペルー共和国
- República del Perú
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(国旗) 詳細 - 国の標語 : Libertad y Orden
(スペイン語: 自由と秩序) - 国歌 : ペルーの国歌
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公用語 スペイン語、ケチュア語、アイマラ語 首都 リマ 最大の都市 リマ 大統領 アラン・ガルシア 首相 ホルヘ・デルカスティジョ 面積
- 総計
- 水面積率世界第19位
1,285,220km²
8.80%人口
- 総計(2004年)
- 人口密度世界第39位
27,544,305人
21人/km²GDP(自国通貨表示)
- 合計(2005年)
2,492億ヌエボ・ソルGDP(MER)
- 合計(2005年)世界第54位
728億ドルGDP(PPP)
- 合計(2005年)
- 1人当り世界第54位
1,469億ドル
5,200ドル独立 スペインより
1821年7月28日通貨 ヌエボ・ソル (PEN) 時間帯 UTC -5(DST: なし) ccTLD .PE 国際電話番号 51
エクアドル、コロンビア、ブラジル、ボリビア、チリと国境を接する。現在大統領制。16世紀まではインカ帝国、その後スペインの植民地時代はペルー副王領の中心地であった。
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[編集] 国名
公用語による正式名称は、República del Perú(スペイン語: レプブリカ デル ペルー)。通称は、Perú。
公式の英語表記は、Republic of Peru(リパブリック オブ ペルー)。通称は、Peru。
日本語表記による正式名称の訳は、ペルー共和国。通称は、ペルー。以前は漢字で「秘露」と書かれていた時期がある。
[編集] 歴史
1000B.C.頃~200B.C.頃、アンデス全域にネコ科動物や蛇、コンドルなどを神格化したチャビン文化が繁栄する。その後、北海岸にモチェ文化がA.D.100頃~A.D.700頃、現トルヒーヨ市郊外に「太陽のワカ」「月のワカ」を築き、南海岸では、A.D.1頃~A.D.600頃に、信仰や農耕のための地上絵を描いたナスカ文化が繁栄した。
南部の山岳地帯のアヤクーチョ盆地に、A.D.800頃、ワリ文化が興隆した。ティワナクの宗教の影響を強く受けた文化であったと考えられ、土器や織物に地域色は見られるものの統一されたテーマが描かれること、いわゆるインカ道の先駆となる道路が整備されたこと、四辺形を組み合わせた幾何学的な都市の建設などからワリ帝国説が唱えられるほどアンデス全域にひろがりをみせ、A.D.1000頃まで続いたと考えられる。北海岸のランバイエケ地方には、金やトゥンバガ製の豪華な仮面で知られるシカン文化がワリ文化の終わりごろにダブって興起した。
その後、北海岸にはチムー王国が建国され、勢力を拡大した。首都チャンチャンは、王の代替わりごとに王宮が建設されたと思われる。15世紀になると南部の山岳地帯から征服戦争を繰り広げて急速に勢力を拡大してきたタワンティン・スウユ(インカ帝国)によってA.D.1476頃に征服されて、その支配体制に組み込まれた。インカ帝国はクスコを首都とし、16世紀中頃までが栄えていたが1533年、フランシスコ・ピサロ率いるスペインの侵略者たちによる13代インカ(皇帝)のアタワルパの絞首刑と共に崩壊。その後1821年に独立宣言するまでスペインの植民地となる。 植民地下のペルーでは金銀などの鉱物の搾取が宗主国スペインによって行われ、鉱山開発に酷使された先住民の多くは苦役の末に死亡し、その数は100万人とも言われる。
1821年にホセ・デ・サン=マルティンの指導のもと独立を宣言したが、スペイン政府は固執。1824年にシモン・ボリーバルがアヤクチョの戦いでスペイン軍を撃破し、スペイン勢力を一掃。事実上の独立を果たした。しかし、スペインがペルーの独立を認めるのは1879年である。 1879年にはボリビアと同盟してチリと戦争を起こし、硝石鉱山を争った。しかし、敗北し、貴重な資源であった「グアノ(海鳥のフンからなる硝石資源)」の鉱山も荒廃した。
19世紀には豊富な地下資源に着目したアメリカ合衆国や英国の経済支配が進むが、それに反発してインディオ知識人層らによって「アメリカ人民革命同盟」が設立された。
1908年には支配下階層の分裂の間隙をぬってレギア政権が誕生。20年にわたる独裁をしく。 1920年代にはアヤ・デ・ラ・トーレがアメリカ人民革命同盟による政権奪取を狙ったが軍部に阻まれ失敗。それ以降同同盟は民族主義路線を放棄し、支配体制に組み込まれた。
その後何度かの政変を経験したあと1968年にはベラスコ将軍が軍事クーデターを起こし、反米と自主独立を旗印に「アメリカ人民革命同盟」の標榜した路線を推進していく。いわゆる「ペルー革命」と呼ばれるもので外国資本の国有化や第3世界外交が展開された。しかし、ベラスコは経済政策の失敗で1975年に失脚した。
1980年には民政に移り、ベラウンデ・テリー政権が誕生。しかし、災害や不況で政権運営は多難を極め、センデロ・ルミノソなどのゲリラ勢力が力をつけてきた。
1985年、ガルシア大統領を首班とする「アメリカ人民革命同盟」の政権が発足し、国民の支持を背景に民族主義を掲げ、外交では強硬な路線をとる一方で、内政では貧困層の救済に尽力した。しかし1988年にはインフレの発生と治安悪化を理由に退陣した。
1990年に行われた大統領選挙では日系人のアルベルト・フジモリが勝利し、南米初の日系大統領となる。彼は、インフレ抑制と財政赤字の解消による経済政策で悪化したペルー経済の改善を図った。 1992年4月にはフジモリは議会を解散し、憲法を停止。アメリカ合衆国などから「非民主的」と非難された。 それを受けて同年11月には憲法制定議会の選挙を行い、大統領権限を強化した憲法を国民投票の結果、発布にこぎつけ、内外の非難をかわした。
1994年からは軍部よりの政策になると首相辞任などの政治混乱を招いた。 1997年に武装勢力による日本大使公邸占拠事件が発生した。
[編集] 政治
1980年頃から反政府左翼ゲリラの活動が活発になった。センデロ・ルミノソとトゥパク・アマル革命運動(MRTA)が反政府活動の主流である。これら左翼ゲリラの活動によって3万人を超える犠牲者が出たと言われている。
1990年に誕生したフジモリ政権は治安回復に取り組んだが、少数与党であった為議会運営に問題があったので、議会と憲法を停止するという強引な方法で全権を掌握し、対ゲリラの治安対策と経済対策を行った。この手法は民主主義に反すると諸外国から抗議があったが、左翼ゲリラの最高責任者を逮捕するなど治安回復に効果をあげた。また経済政策にも特筆すべき成果を挙げており、貧困層ではフジモリ人気が極めて高い。
2000年、フジモリ大統領の側近であるモンテシノス国家情報局顧問による、野党議員買収事件をうけて、同年11月日本において辞意を表明し、ペルーに帰国せずそのまま日本に留まった。
2001年の大統領選挙では、貧困の一掃と雇用創出、政治腐敗にの追及を公約としたトレド大統領が選出されトレド政権が発足した。しかし経済政策は成果を上げることはできず、国民の支持は下り坂。左翼ゲリラによるテロ活動も復活し治安は悪化している。このため国内では貧困層を中心にフジモリ待望論が広がっており、国民の3割がフジモリを支持しているとされる。これに危機感を抱いたトレド政権はフジモリ大統領を引き渡すよう日本政府に要請しているが、日本政府は引き渡しを拒否し続けているため、ワイスマン副大統領ら強硬派は日本との国交断絶を主張している。
2005年11月、トレド大統領はアジア太平洋経済協力会議を利用して、小泉首相に首脳会談を申し入れた。しかし、小泉首相は日程を理由に断った。
2006年6月に行われたペルー大統領選挙で中道左派のアラン・ガルシア(58)が当選した。7月28日、フジモリ元大統領の長女ケイコら新議員等を前に就任演説で、人口の半数を占める貧困層の生活水準向上に全力で取り組む考えを示した。また、行政機関の根深い汚職体質にメスを入れ、地方分権に積極的に取り組む方針を打ち出した。1985年、36歳で大統領に就任したガルシアは腐敗一掃の期待を集めた。しかし、所属政党のアメリカ革命人民同盟(APRA)関係者で政府の要職を独占したため、汚職は逆に悪化。さらに、経済・治安政策で失敗を繰り返し、国家を破綻に追い込んだ。その反省に立ち、今回の内閣では、APRA党員を閣僚16人中6人に止めた。
これまでペルーは、死刑の適用は国家反逆罪のみ、一般の刑法犯は終身禁固を最高刑とする一般犯罪における死刑廃止国だったが、アラン・ガルシア大統領は、選挙公約の一つに掲げていた、7歳未満の子供に、性的暴行を加え殺害した被告への死刑適用を認める法案を、2006年9月21日に議会へ提出。現在、その審議が行なわれている。背景には、日本の広島県で2005年に発生した少女暴行殺害事件の容疑者が母国ペルーで同様の犯行を行っていたことや、年少者に対する性犯罪の厳罰化を求める世論が同国で高まり殺害した場合の死刑適用に8割が賛成するなどの世論調査の結果が挙げられる(2006年9月22日付時事通信「子供への性的暴行殺人に死刑適用:ペルー大統領が法案提出」より)。
- ※ラテンアメリカ諸国全体の傾向としては、現在ほぼ全ての国が一般犯罪に対する死刑を廃止し、死刑制度を存続している国も10年以上死刑を執行していない。
[編集] 地方行政区分
24の州とカイヤオ特別区によって編成されている。
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[編集] 地理
ペルーの国土は3つの地形に分けられる。 砂漠が広がるコスタ(12%)、アンデス山脈が連なる高地のシエラ(28%)、アマゾン川流域のセルバ(60%)である。
[編集] 経済
通貨 : s/. ヌエボ・ソル Nuevo Sol(訳 : 新しい太陽)その下にセンティモ(Centimo)、s/.1=100Centimos
産業:産業の中心は、銅・鉛・亜鉛・銀・金などの鉱業である。特に銀は世界第2位の産出量である(2003年)。 また、中国に次いで世界第2位(2003年)の漁獲高を誇る水産業もペルーの主要な産業であると言えよう。
[編集] 国民
民族 : 混血 (メスティーソ)45%、インディオ(先住民)37%、ヨーロッパ系15%、アフリカ系・アジア系・その他3%。内、日系ペルー人は約8万人。
人口増加率 : 1.39%
言語 : 公用語はスペイン語、ケチュア語(1975年から)、アイマラ語(1980年から)。
宗教 : ローマ・カトリックが95%以上
[編集] 文化
世界遺産 :
- アレキパ歴史地区
- クスコの市街
- チャピン遺跡
- チャンチャン遺跡
- マヌー国立公園
- リマ歴史地区
- リオ・アビセオ国立公園
- ナスカおよびフマナ平原の地上絵
- マチュ・ピチュ
- ワスカラン国立公園
[編集] 日本との関連がある有名人
- アルベルト城間(国内では沖縄県を中心に活躍しているグループディアマンテスのボーカル)
- アルベルト・フジモリ(ペルー共和国元大統領)
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
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1月1日 | 元日 | Año Nuevo | |
3月 - 4月 | 聖週間 | Semana Santa | 移動祝日 |
5月1日 | メーデー | Día del Trabajo | |
6月29日 | 聖ペトロと聖パウロの祝日 | San Pedro y San Pablo | |
7月28日-7月29日 | 独立記念日 | Día de la Independencia del Perú | |
8月30日 | リマの聖ロサの記念日 | Santa Rosa de Lima | |
10月8日 | アンガモス海戦記念日 | Combate de Angamos | |
11月1日 | 諸聖人の日 | Día de Todos Los Santos | |
12月8日 | 無原罪の聖母の祭日 | Día de la Inmaculada Concepción | |
12月25日 | クリスマス | Navidad |
[編集] 関連項目
- ペルー関係記事の一覧
- オリエンテ
[編集] 外部リンク
- 世界の国々 > アメリカ
-
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