黄埔軍官学校
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黄埔軍官学校(こうほぐんかんがっこう)は中華民国大統領(中国語:総統)孫中山(孫文)が1924年に広州に設立した中華民国陸軍の士官養成学校である。当時は国共合作が行われていたため、中国国民党だけでなく、中国共産党の軍人も入校した。後、台湾の陸軍軍官学校として再建されている。黄埔は北京語ではホアンプー(Huangpu)、広東語でウォーンボウと読み、英語ではWhampoaとあてる。
[編集] 歴史
北伐を志す孫中山は1923年9月に蒋介石をソ連に派遣して軍制の視察をさせ、1924年1月28日広東省広州の長洲島にある黄埔に軍官学校(士官学校)を建設することを決定した。この場所には以前、広東陸軍学堂と広東海軍学校があった。5月には蒋介石を校長、廖仲愷を国民党代表、李済深を教練部主任、鄧演達を同副主任、王柏齢を教授部主任、葉剣英を同部副主任、戴季陶を政治部主任、周恩来を同部副主任,何応欽を総教官とする人事が発表された。
同時に1200名の受験生の中から350名を学生として採用し、予備合格120名として、5月5日入学させた。6月16日開校式典を挙行し、孫中山が演説、その一節は中華民国国歌となった。
黄埔軍官学校には当時革命軍にいた才能ある人材が集まったが、卒業生の中には徐向前や国民党指揮官となった杜聿明や胡宗南らがいる。この学校を卒業した者はのちに国民革命軍の中核となっていき、また在学生や卒業生が国民政府の統治に大きく貢献したので、蒋介石は急速に影響力を増した。また国民党の幹部だけでなく共産党の指揮官になった林彪、彭徳懐もこの学校の出身者である。
黄埔軍校の最初の教員はソ連から来た者が多かった。しかし、北伐期間中、国共分裂したため、ソ連人や共産党系教員、学生は引き上げている。
広州が1928年に軍閥の攻撃を受けたため、南京に移り、1938年日本軍の南京占領後は成都に移転した。第二次世界大戦後、国共内戦により、共産党が勝利し、国民党は台湾に逃れた。1950年黄埔軍官学校は台湾高雄県鳳山市で陸軍軍官学校として再建された。
[編集] 関連項目
[編集] 外部サイト
- 台湾陸軍軍官学校公式サイト(中国語)