南漢
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南漢(なんかん、909年 - 971年)は唐滅亡後の五代十国時代に広東省・広西チワン族自治区を支配した地方政権。
建国者の劉隠の祖先は河南にあったが、祖父の代に福建に移り住んで、南海交易で利益を上げて、当地の有力者となった。父の劉謙(りゅうけん)の時に広州に移って、黄巣の乱に際して功績を挙げて、封州(広東)刺史となった。なお、劉隠の祖先はアラブ系だという説がある。
劉隠は父の死後、その地位を受け継いで刺史と為り、静海軍節度使(広東・広西)の反乱を鎮圧し、更にこれを乗っ取って904年に静海軍節度使となった。その後、広東全土と広西の一部を支配し、唐の滅亡とともに自立の姿勢を強める。さらに南海貿易での利益をもとに広東・広西に勢力を広げ、半独立勢力化した。これに対して当時の中原勢力である後梁は909年に彼を南平王に、911年に南海王に任じた。劉隠は南海王に任じられた後、ほどなくして死去した。
跡を継いだ弟の劉龑(りゅうげん、龑は龍の下に天)は913年に皇帝を名乗り、完全に自立した。国号は当初大越であったが、翌年に前漢・後漢を建てた劉氏と同姓であることから漢に改称した。南漢の名は、他の政権と区別するための後代の歴史家の命名である。
南漢の政治は戦乱の時代であり、圧倒的に軍人主導の政治であった五代十国時代では例外的に文官が優越した政治であり、地方官は全て文官がなることが原則であった。この理由としては、唐代の中央での権力争いに敗れた官僚たちの左遷先として選ばれていたのがこの地方であり、そのまま住み着いた者も多く、そう言った人々が南漢勢力に参加したからである。劉隠自身もこれら文官の参加を積極的に推進し、この地に比較的平穏な状態を作ることに成功する。更に南海貿易の巨額の利益を積み上げて、宮廷は大いに贅沢なものとした。
しかし、942年の劉龑の死後は継承争いにより混乱が起きる。まず劉龑の三男の劉玢(りゅうひん、玢は王編に分)が後を継ぐが、すぐに弟(四男)の劉晟に殺され、劉晟(りゅうせい、晟は日の下に成)が即位する。
劉晟は帝位を争う弟たちを皆殺しにして帝位を安泰とし、更に北の楚の内乱に乗じて出兵し、領土を奪った。しかし外征の景気の良さとは裏腹に劉晟は殺した弟たちの妻を自らの後宮に入れるなどの不品行が目立ち、更に政治を宦官に任せきりにするなど内部は腐敗していた。
劉晟は958年に死去し、長男の劉鋹(りゅうちょう、鋹は金編に長)が後を継ぐが、劉鋹は猜疑心が非常に強く、文官たちを殺して周り、その代わりを全て宦官で埋めて、劉鋹の朝廷はほとんど宦官で占められるという有様であった。劉鋹は登用したい人物がいた場合はわざわざ去勢してから登用すると言ったこともしたと言う。
このような状態に人心は乖離し、971年の宋の侵攻には全く抵抗し得ず、劉鋹は財宝を持ち出して逃亡しようとしたが、信任してきた宦官によって持ち逃げされ、宋軍の捕虜となった。によって併呑された。劉鋹を初めとした一族は開封に移され、王族として遇された。劉鋹は宋の左千牛衛大将軍とされ、死後には南越王に追封された。
[編集] 南漢の統治者
- 烈祖・劉隠(りゅういん 874年 - 911年)
- 高祖・劉龑(りゅうげん、もとの名は巌 889年 - 942年 在位917年 - 942年)
- 殤帝・劉玢(りゅうひん、もとの名は宏度 920年 - 943年 在位942年 - 943年)
- 中宗・劉晟(りゅうせい、もとの名は宏煕 920年 - 958年 在位943年 - 958年)
- 後主・劉鋹(りゅうちょう、もとの名は継興 943年 - 980年 在位958年 - 971年)
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