小田和正
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小田 和正(おだ かずまさ、1947年9月20日 - )は、日本のニューミュージック・フォークシンガーでありシンガーソングライター。
元オフコースのボーカル兼リーダー。株式会社ファー・イースト・クラブ(FAR EAST CLUB INC.)代表取締役社長。
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[編集] 概略
将来、建築家を目指していた小田は高校時代から同級生らと続けてきたフォークグループ「ジ・オフ・コース」のアマチュア音楽活動の有終の美を飾るべく、自信をもって臨んだ「ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」で不本意にも2位になったことで、「オフコース」として、プロの道を歩み出すことになる。数年間は売れない時代が続いたが、やがて、1970年代から1980年代にかけて、次々とヒット曲を生み出し、時代を代表する人気グループとなった。オフコース時代のシングルのA面のほとんどは小田の曲であり、そのシンプルで、ストレートに愛を歌う歌詞とハイトーンの澄んだボーカルはオフコースの大きな特色であった。オフコース時代から、ソロ活動は始めてはいたが、1989年のオフコース解散以後に活動を本格化させる。特に、1991年の『東京ラブストーリー』というトレンディドラマの主題歌『ラブ・ストーリーは突然に』が大ヒットし、オフコース時代にも達成できなかった「オリコンシングルチャート第1位」と「シングルのミリオンセラー」の達成を一挙に成し遂げ、それ以降の曲もヒットを重ねている。またオフコース時代にはほとんどなかったCMとのタイアップや、他のアーテストへの楽曲提供や、コラボーレーションを行ったり、テレビでの出演も行い、大変な反響を呼んだ。また、音楽以外の分野では映画やドキュメンタリーの制作なども行った。オフコース時代は圧倒的に女性ファンが多かったが、近年はコンサートなどでも男性客も増えているともいう。
[編集] 来歴・人物
神奈川県横浜市金沢区出身。金沢文庫すずらん通り商店街にある小田薬局で育つ。関東学院六浦小学校 - 横浜市立八景小学校 - 聖光学院中学校・高等学校 - 東北大学工学部建築学科 - 早稲田大学大学院理工学研究科(建築学専攻、池原義郎研究室)修士課程修了。 建築家の藤森照信は学部時代からの友人。1982年9月3日、ファンクラブの手伝いをしていた女性と結婚。 子供はおらず、東京都渋谷区に在住。実家は神奈川県逗子市。
[編集] 略歴
[編集] オフコース時代
ジ・オフ・コースのメンバーとして1970年にシングル『群衆の中で』(作詞:山上路夫・作曲:BETTY DEAN)でデビュー。1973年、オフ・コースとしてのデビュー作『僕の贈りもの』(小田和正 作詞・作曲)が、シンガーソングライターとしての出発点となる。
その後オフコースとして数々のシングルやアルバムを発売するも、なかなか売れない時代が続いた。当時は時代的に思想的なメッセージ性の強い曲が受けていたので、オフコースのようなストレートに愛を歌うグループは冷ややかに見られ、客席から「帰れ!」とブーイングされたこともあったという。同じ事務所の杉田二郎のバーター(知名度を上げるため、事務所の先輩の出演する番組に抱き合わせで出演)としての活動が多く、ラジオのDJもやっていたが、受けなくて苦痛だったという。当時、大人気だったかぐや姫や井上陽水の活躍を横目に辛い時期を過ごしていた。しかし、地道にコンサート活動を続けてきた結果、徐々に『眠れぬ夜』『秋の気配』『愛を止めないで』とスマッシュヒットを重ね、1979年12月に発売されたシングル『さよなら』(小田和正 作詞・作曲)が72万枚(オリコン最高位2位)の大ヒット、一躍人気ニューミュージックバンドとなった。
シングルA面は主に小田が手掛けており、『Yes-No』『I LOVE YOU』『YES-YES-YES』『言葉にできない』『君が、嘘を、ついた』『君住む街へ』などのヒット曲を生み出す。 『さよなら』以前の曲にも、『秋の気配』『愛を止めないで』など、ファン投票で好きな曲上位に必ず入る曲が少なくない。
シンコペーションや転調を多用した印象的なメロディや、行間のある叙情的な作詞は、オフコース時代に小田和正のものとなった。
#詳しくはオフコースの記事参照。
[編集] ソロ活動の成功
オフコース在籍中の1985年に、松任谷由実・財津和夫との共作でリリースしたシングル『今だから』がヒット。1986年にシングル『1985』でソロデビュー。1989年、オフコース解散と同時にソロ活動を本格化させる。
1991年、フジテレビ月9ドラマ『東京ラブストーリー』の主題歌として制作した楽曲『ラブ・ストーリーは突然に』が、ドラマと見事なコラボレーションを成し、ドラマ・主題歌共に大ヒット。オフコース時代に叶わなかった、「オリコンシングルチャート第1位」と「シングルミリオンセラー突破」を一挙に成し遂げた。
その後は、ヒットメーカーとしての地位を確立し、楽曲はドラマ・CMなどに積極的に採用され、『伝えたいことがあるんだ』『キラキラ』『まっ白』などのヒット曲を生み出している。また、オフコース時代を含む過去の楽曲を集め、新アレンジで再録音したアルバム『LOOKING BACK 2』や『自己ベスト』は、原曲を聴き慣れたファンからは賛否両論を呼びつつも、幅広い年代に支持される大ヒットとなり、改めて小田サウンドの力を見せつけた。
[編集] CDセールスの記録
1985年 シングル『今だから』(松任谷由実・小田和正・財津和夫共作) - 「オリコン シングルチャート1位」獲得は、小田の音楽キャリア史上初。売上げ36.5万枚
1991年 シングル 『Oh! Yeah!/ラブ・ストーリーは突然に』 - 「オリコン シングルチャート1位」「年間シングルチャート1位」 ソロで初の1位獲得
1991年 シングル 『Oh! Yeah!/ラブ・ストーリーは突然に』 - 270万枚を売り上げ、当時のシングルCD・レコード売上枚数記録史上、過去最高記録達成
2001年5月 アルバム 『LOOKING BACK 2』 - 「オリコン アルバム1位獲得 最年長記録」 53歳8ヶ月 (それまでの同記録は井上陽水『GOLDEN BEST』1999年7月 51歳0カ月)
2002年5月 アルバム 『自己ベスト』 - 「オリコン アルバム1位獲得 最年長記録(自己記録更新)」 54歳8ヶ月←53歳8ヶ月
2004年12月 『自己ベスト』 - 「オリコン アルバム売上200万枚突破 最年長記録」 57歳3ヶ月 (それまでの同記録は松任谷由実『Neue Musik(ノイエ・ムジーク)』1998年11月 44歳10カ月)
2004年12月 『自己ベスト』 - 「男性ソロアーティスト アルバム200万枚突破 史上2人目達成」 (初記録は河村隆一『Love』1997年12月)
2005年6月 アルバム 『そうかな』 - 「オリコン アルバム1位獲得 最年長記録(自己記録更新)」 57歳9ヶ月←54歳8ヶ月
[編集] プロデュースやコラボレーション
ソロになった1989年以降、他のアーティストとの交流が急速に活発化する。
ソングライターとして鈴木雅之、中村雅俊、島倉千代子や松たか子らの楽曲を全面的にプロデュースする他、ASKAや佐藤竹善などとコラボレーションする。
また、チャリティ目的のコラボレーショングループUSED TO BE A CHILDの主催、泉谷しげるらとのチャリティライブ、スターダストレビュー、CHAGE and ASKA等とのジョイントライブや音楽イベントに積極的に参加するようになった。
小田自身のソロライブでも、コーラスに安部恭弘、佐藤竹善、山本潤子、加藤いづみらを起用している。
[編集] 映画監督としての活動
音楽を目指すきっかけの一つに、少年時代に見た映画『ティファニーで朝食を』の主題歌でヘンリー・マンシーニ作曲の『ムーン・リバー』に強く心を動かされたという経験があった。音楽と映像を融合させた表現にはオフコース時代から積極的に取り組んでおり、当時としては珍しい、楽曲のビデオクリップ制作などに注力していた。
1992年、最初の映画監督作品となる『いつか どこかで』を発表。全国ロードショウされたが、映画評論家には不評を買い、セールス的にも成功とはいえなかった。アルバム『sometime somewhere』はこの映画のサウンドトラック的存在として作られた。
1997年、一作目の映画製作時の体験を元に、監督第二作目となる『緑の街』を制作、発表した。この作品は映画会社配給ではなく、全国のホールなどに上映機材を持ち込んで上映をしていく「シネマ・ツアー」という公開形式をとった。「歌手である主人公が映画製作を果たす」というストーリーが、実体験を元にさわやかな感覚で描かれており好評を得た。
折に触れ、第三作の映画にとりかかるという話は聞かれるが、2006年11月現在、具体的な話は始まっていないようである。
[編集] ファンへむけた活動
Far East Café という名のカフェを経営している。カフェでは飲み物はもちろん、ファン向けの様々なサービスが提供され、小田和正グッズも販売されている。また、ファン向けに「Far East Café Press」という会報を毎月発行しており、日々の活動などが伝えられている(ファンクラブと銘打っていないが、コンサート・チケットの優先販売もPress購読会員向けに行なっている)。1995年からは、毎年の活動をまとめたビデオ「LIFE-SIZE」を、Press購読会員限定で発売している(現在はDVDで発売)。
[編集] 声について
女声域までの高音をファルセットを使わず素直に出せる澄んだ歌声が大きな特徴で、天性のものと言うほかない。オフコース初期には、バンドに女性ボーカルがいると間違われることもしばしばだったという。少年のような歌声に、変声期を経ずに成長したのではとの見方もあり、自身も小貫信昭のインタービュー本『たしかなこと』で「変声期があった記憶がないので、声変わりしていないと思う」との旨を述べているが、2005年コンサート中のMCにて「医者に尋ねてみたが、声変わりしていないという事は有り得ないそうだ」と、その認識に変化があった様子を伺わせた。話す声はわりあい低く聞こえ、歌声とのギャップが大きいとの感想は多く聞かれる。「どうしたら高い声で歌えるのか」との問いには「僕はただシャウトしているだけ」と答えている。大学時代は東北大学混声合唱団においてテノールを担当していた。
[編集] 交通事故
1998年7月22日夜、愛車セルシオを自身で運転して事務所・関係者らとの恒例行事「DEATH MATCH」開催のゴルフ場へ向かうため、栃木県都賀町の東北自動車道下り線を走行中、自損事故を起こし、全治4週間の重傷を負う。現場付近は雨が降っており、80キロの速度規制が出されていたところを、約20キロオーバーの100キロ前後で走行しており、スリップしてコントロールを失い、ガードロープに接触した。その衝撃で後部座席に飛ばされ、後部座席で横たわった形で救出される。車は大破。同乗者はいなかった。幸いにも、後続車による追突や、横転、反対車線への飛び出しといったことがなかったため、九死に一生を得る。約2週間の入院を経た後、奇跡的な回復を見せ、同年9月12日、福岡県にある「海の中道」で行われた、スターダスト・レビューとのジョイントコンサートで、完治していない不自由な体ながらも見事に歌手活動に復帰した。
[編集] 音楽作品
[編集] シングル
- 1985 (1986年)
- 僕の贈りもの (1988年4月25日)
- Little Tokyo(1989年10月18日)
- 君にMerry Xmas (1989年)
- 恋は大騒ぎ (1990年2月21日)
- Oh! Yeah!/ラブ・ストーリーは突然に (1991年2月6日) オリコン最高位1位/1991年年間シングルチャート1位/売上げ258.8万枚
- あなたを見つめて (1991年11月20日) オリコン最高位6位/1992年年間シングルチャート96位/売上げ20.8万枚
- いつか どこかで (1992年1月25日) オリコン最高位5位/1992年年間シングルチャート55位/売上げ36.0万枚
- そのままの君が好き (1992年7月25日)
- 緑の日々 (1993年3月25日)
- 風の坂道 (1993年9月22日)
- 真夏の恋 (1994年7月16日)
- so long my love (1995年1月25日)
- 君との思い出 (1995年11月22日)
- 遠い海辺 (1997年5月21日)
- 伝えたいことがあるんだ (1997年7月24日)
- 緑の街 (1997年8月29日)
- こんな日だったね (1999年10月21日)
- woh woh (2000年3月23日)
- 風の街 (2001年3月7日)
- キラキラ (2002年2月27日)
- まっ白 (2004年2月25日)
- たしかなこと (2005年5月25日)
[編集] オリジナルアルバム
- K.ODA (1986年、オフコース時代に製作)
- BETWEEN THE WORD & THE HEART (1988年、オフコース時代に製作)
- Far East Café (1990年5月9日)
- sometime somewhere (1992年1月25日)
- MY HOME TOWN (1993年10月27日)
- 個人主義 (2000年4月19日)
- そうかな 相対性の彼方 (2005年6月15日)
[編集] ベストアルバム
- Oh! Yeah! (1991年2月6日)
- 伝えたいことがあるんだ (1997年11月21日)
- 自己ベスト (2002年4月24日)
[編集] セルフカバーアルバム
- LOOKING BACK (1996年2月1日)
- LOOKING BACK 2 (2001年5月16日)
[編集] カバーアルバム
- 21世紀への贈りもの OFF COURSE Melodies
- ラブ・ストーリー ~小田和正ソングブック~
[編集] コラボレーション
- 今だから(シングルレコード)(1985年、松任谷由実・財津和夫との共作 編曲は坂本龍一 未CD化)オリコン最高位1位 売り上げ36.5万枚
- 僕らが生まれたあの日のように(8cmCD)(1993年、飛鳥涼(現:ASKA)らとのユニット「USED TO BE A CHILD」名義)
- クリスマスが過ぎても(8cmCD)(1996年、佐藤竹善とのユニット「PLUS ONE」名義)
- この日のこと(未CD化)(2001年、『クリスマスの約束』テーマソング。作詞・作曲:小田和正。21組のアーティストと合唱)
- クリスマスの約束 (2003年、『クリスマスの約束』内で一度だけ披露した、ゆずとのコラボレーション曲。2006年11月29日にゆずおだ名義でCDシングルとして発売)
[編集] コンサート
[編集] ツアー
- K.ODA TOUR 1990 Far East Club Band (1990年5月31日~1990年11月7日、全国40ヶ所、56公演)
- Sometime Somewhere K.ODA TOUR FAR EAST CLUB BAND 1992 (1991年12月1日~1992年4月25日、全国33ヶ所、59公演)
- FUN MORE TIME! KAZUMASA ODA TOUR 1995 (1995年1月7日~1995年5月23日、全国36ヶ所、60公演)
- K.ODA TOUR 1997-1998 THRU THE WINDOW (1997年9月2日~1998年2月3日、全国50ヶ所、65公演)
- SAME MOON! KAZUMASA ODA TOUR 2000 (2000年5月11日~2000年10月12日、全国45ヶ所、59公演)
- K.ODA TOUR 2002 「Kira Kira」 (2002年5月2日~2002年8月18日、全国25ヶ所、39公演)
- KAZUMASA ODA TOUR 2005 "大好きな君に" (2005年6月3日~2005年12月21日、全国20ヶ所、40公演)
[編集] 野外コンサート
- MY HOME TOWN KAZUMASA ODA/FAR EAST CLUB BAND (1992年8月25日・阪急西宮スタジアム、8月29、30日・横浜スタジアム)
- ちょっと寒いけどみんなでSAME MOON!(カウントダウン・コンサート) (2000年12月31日~2001年1月1日、横浜・八景島シーパラダイス特設会場)
[編集] テレビ番組
[編集] テレビでの活動
オフコース時代よりテレビというメディアには不信感を抱いており、めったに出演しないことで有名であったが、ソロ活動を始めて以降、ネスカフェのCM出演を皮切りに、自身の露出にも関心を持つ。しかしいわゆる普通の音楽番組にはほとんど出演しないことからも分かるように、制作段階から自身の構想や意見を反映できる余地のないオファーは論外のようだ(ネスカフェのCMも、自分の注文が受け入れられたからOKしたと語っている)。
2001年『クリスマスの約束』の成功により番組は毎年制作され、ファン層の広がりやCDの売上げなど、テレビ出演が自身の音楽活動に強く影響することを実感したと思われる。2004年には『クリスマスの約束』の発展形である『風のようにうたが流れていた』を、3ヶ月間毎週放送の自身初TVレギュラー番組として制作。制作に当たっては、時間的制約の中で選曲や練習、観衆の中での本番と、大変な奮闘だったようだが、ここでもまた達成感と共に意識変化があったと見え、「やるかやらないか」の選択時「やらなければ"ゼロ"、やれば"何か"が残る」と、積極的なコメントが聞かれるようになった。2005年には17年ぶりに企業CM出演の依頼も引き受けた。
2005年末に一部で、NHK紅白歌合戦より出演依頼を受けているとの噂が流れた。小田和正やオフコースの曲が、同年新企画の視聴者アンケート「スキウタ」上位にランクインしたためである。ファンの間では賛否両論あったが、結局出演することはなかった。小田自身はこの番組に対しコンサートで「大きな偏見を持っている」と話している。
[編集] クリスマスの約束
- 2001年、「他にはない音楽番組を」というTBSの提案により、TBS系列の番組『クリスマスの約束』が制作された。日本の音楽シーンを代表し、かつ小田和正自身が歌いたいと思う楽曲7曲を独自に選出し、そのアーティスト達に自筆の手紙を書くところから始まった。長年確執があると言われてきた山下達郎をはじめ、SMAP、サザンオールスターズ、宇多田ヒカル、福山雅治、Mr.Childrenなど、有名アーティスト本人に直接出演依頼し、一緒に歌いたい・新たな音楽番組を作りたいと呼びかけた。しかしそれぞれの都合で、全てのアーティストが出演辞退。一組のゲスト出演も叶わず、TBSは不承不承、本人は気持ちを切替え「一人でやってみせる」との意気込みで、一夜のスペシャルライブが東京ベイNKホールで開かれ、制作過程のドキュメントシーンを織り交ぜ12月25日深夜に放送された。山下達郎からの丁重な断りの手紙を読み上げ、彼の代表曲『クリスマス・イブ』を歌うシーンが最大の山場となった。福山雅治よりの辞退の手紙や、宇多田ヒカルが辞退の挨拶のため小田の元を訪れたというエピソードも紹介された。また、番組のテーマ曲制作のため、山本潤子、加藤いづみ、財津和夫、CHAGE and ASKA、鈴木雅之、佐藤竹善など普段から親交の深いアーティストや、コブクロ、Kiroroなど小田が気になる若手アーティストらに協力を呼びかけ、これに応えた21組のアーティストにより、『この日のこと』(作詞・作曲:小田和正)が生まれた(未CD化)。番組放送にあたり大掛かりなプロモーションはなかったが、それまでほとんど「自分の曲」しか歌わなかった小田和正が、他人の曲を、自身の世界に引き寄せつつも、アーティストに敬意を表して懸命に丁寧に歌う姿が人々の心を捉え、感動の声がTBSに多数寄せられた。(リクエストに応え、2002年2月16日(土)14:00~ 「完全版」として再放送された)
- 2002年は、当初からゲストなしの企画。自身で選曲した松任谷由実、中島みゆき、吉田拓郎、椎名林檎などの曲を歌った。昨年の放送後まもなく届いたという桜井和寿よりの手紙を読み、Mr.Childrenの『HERO』を歌う場面が山場であった。12月25日深夜に放送。
- 2003年でようやく念願が叶ってゲストとのコラボレーションが実現。ゲストはゆず、財津和夫、スターダスト・レビューの根本要、Mr.Childrenの桜井和寿。アーティストはどんな曲が好きなのかとのアンケートを取り、その結果を選曲やゲスト招聘の参考とした。またこの年は、ゆずとのコラボレーション(共同制作)曲『クリスマスの約束』が披露された(CD化の詳細はコラボレーションの項を参照されたし)。初回以来この年まで、収録場所は東京ベイNKホールが定着し、山下達郎の『クリスマス・イブ』も歌い続けた。
- 2004年には初のレギュラー番組としてTBS系列で『風のようにうたが流れていた』(全11回)をオンエア。この年の『クリスマスの約束』は『風のようにうたが流れていた』の総集編となった。
- 2005年は、同年の小田和正の全国ツアー「大好きな君に」を基本にしたセットリストで、さいたまスーパーアリーナでライブ収録して編集、放送された。ツアー中に各会場でゲストとして登場したムッシュかまやつ、松たか子、財津和夫、根本要、ゆず、スキマスイッチ、星野仙一らの映像が流された他、当日唯一のゲストとしてSMAPの中居正広が出演、二人で『夜空ノムコウ』を歌った。12月25日が連休の最終日に当たったためか12月22日深夜に放送。
[編集] ドキュメンタリー制作
彼が制作したドキュメンタリーは好評を博し、プロゴルファー青木功のキャディをつとめた時のドキュメンタリー『キャディ』(1994年、テレビ東京系)や、チャリティライブ制作のドキュメンタリー『日本をすくえ』(1994年、テレビ朝日系)は話題となる。
[編集] 主な出演番組
- ファンを公言する小宮悦子によるロングインタビュー(小宮のテレビ朝日退社後、フリーとしての初仕事となった)がメイン。その他、映画「いつか どこかで」監督風景や、Far East Club Band リハーサル・ライブの映像(インタビュー以外は、後述の「音楽達人倶楽部」で放送されたものとほぼ同一)。
- 音楽達人倶楽部「小田和正」(1992年2月、NHK) 映画「いつかどこかで」監督風景やFar East Club Band リハーサル・ライブ映像
- キャディ 青木功/小田和正 ~怒られて、励まされて、54ホール (1994年、テレビ東京)
- 日本をすくえ(1994年、テレビ朝日)
- クリスマスの約束(2001年~、TBS)毎年12月放送
- 月曜組曲「風のようにうたが流れていた」(2004年10月~12月、TBS)全11回
- にんげんドキュメント「小田和正 58歳を歌う」(2006年1月22日、NHK総合)(2006年1月26日、NHKBS2)
- 居酒屋の星野仙一(2006年1月26日、NHKBS2)
- FNS歌謡祭(1991年、フジテレビ)
[編集] CM
[編集] 本人出演
- ネスカフェ ゴールドブレンド
-
- 1988年 曲:『goodtimes & badtimes』
- 1989年 曲:『Little Tokyo』
-
- 1989年 曲:『君にMerry Xmas』〈クリスマス2日間限定〉
- 1991年 曲:『Oh! Yeah!』
- 1992年 曲: 『my home town』
[編集] 楽曲提供
-
- 1986年 『哀しみを、そのまま』 (野球編・ラグビー編=野球編は小田自身の演出)
- 1988年 『僕の贈りもの』 (卒業編)
- 1990年 『恋は大騒ぎ』(仲直り編・床屋編=小田自身も出演。仲直り編は小田自身の企画、演出による)
- 1991年 『いつか どこかで』(小田が提供した映画いつか どこかで』の撮影風景を使用)
-
- 1991年 『風と君を待つだけ』
- 1993年 『だからブルーにならないで』
- シャープ 液晶ビューカム
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- 1993年 『風の坂道』
- 味の素 ほんだし
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- 1993年 『またたく星に願いを』
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- 1997年 『風のように』
- 1999年 『こんな日だったね』
- JRAブランドCM
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- 2000年 『woh woh』、『19の頃』
- 2001年 『風の街』
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- 2000年~2003年 『言葉にできない』(一時期、小田のライブ映像が使われた)
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- 2004年~ 『たしかなこと』
- ハウス食品 北海道シチュー
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- 2003年 『大好きな君に』
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- 2006年3月~6月 オリジナル新曲
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- 2006年 『大好きな君に』
[編集] 映像作品
[編集] ライブ映像
- K.ODA TOUR 1997-1998 THRU THE WINDOW(1998年2月3日、東京国際フォーラム・ホールAにて収録)
- 小田和正 カウントダウン・ライブ ちょっと寒いけどみんなで SAME MOON!(2000年12月31日~2001年1月1日、横浜・八景島シーパラダイス特設会場にて収録)
[編集] テレビ番組
- 風のようにうたが流れていた DVD-BOX(2005年)
[編集] 監督映画
[編集] 関連書籍
- Time can't wait (小田和正 著、1990年初版、朝日新聞社)
- キャディ (小田和正 著、1994年)
- YES-NO 小田和正ヒストリー (小貫信昭 著、1998年初版、角川書店)
- たしかなこと (インタビュアー/著 小貫信昭、2005年初版、ソニー・マガジンズ)
- 小田和正歌詞集 風うた~恋~(小田和正 著/、2006年初版主婦と生活社)
[編集] 関連項目
[編集] 関連人物
- オフコース時代のメンバー
- Acoustic Beatles Club
- 清水仁
- 大間ジロー
- 松尾一彦
- 鈴木康博
- 「クリスマスの約束」「風のようにうたが流れていた」で共演
[編集] 外部リンク
- Far East Café (公式サイト)
- KAZUMASA ODA BMG_COM (BMG JAPAN 公式サイト)
オリコン年間シングルチャート第1位 | ||
前年: B.B.クイーンズ 『おどるポンポコリン』 |
小田和正 『Oh!Yeah!/ラブ・ストーリーは突然に』 |
次年: 米米CLUB 『君がいるだけで/愛してる』 |
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