青木功
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青木功(あおき いさお、1942年8月31日 - )は、千葉県我孫子市出身のプロゴルファーである。日本プロゴルフツアー終身シード保持者。
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[編集] 略歴
- 14歳の頃からゴルフを始め、1964年にプロ入りする。
- ツアー初優勝は1971年の関東プロゴルフ選手権で、1976年に初の日本ツアー賞金王。以後1978年から1981年にかけても、4年連続で賞金王に輝く。
- 日本国内のツアーにほぼ専念していた、ライバルの尾崎将司とは異なり、積極的に日本国外のツアーにも挑戦する。
- 1978年、「世界マッチプレー選手権」で海外ツアー初優勝。
- 1980年の全米オープンでは、4日間「帝王」ジャック・ニクラスとラウンドし、最終日まで死闘を繰り広げた。(優勝はニクラスで、青木は2位。共に当時の優勝レコードを塗り替えての1、2フィニッシュだった。これは現在に至るまで、日本人男子選手のメジャー大会最高成績として残っている)
- また、同年の全英オープンでは、初日に最小スコアレコードである「63」を、文字通り叩き出している。(2006年現在も、タイ記録として燦然と輝いている)
- 1981年、正式な米国レギュラーツアーのライセンスを取得。ツアーに正式参戦を開始する。
- 1983年のハワイアン・オープン(現在のソニーオープン・イン・ハワイ)で、日本人初のアメリカPGAツアー制覇を、最終ホールのショットインイーグルで果たす。(このショットで使用したパワービルトのPWは、ゴルフの殿堂に展示されている)
- 1989年、豪州ツアー「コカ・コーラクラシック」に勝ち、世界四大ツアー(日米欧豪)での優勝を達成。
- 1992年よりシニアツアー(現在の名称は「チャンピオンズ・ツアー」という)にシフトしてゆき、2001年には米シニアツアー「フォードプレーヤーズ選手権」にて、通算1,000試合出場を達成した。
- 2004年、日本人男性としては初めて、世界ゴルフ殿堂入りを果たした。
- 2006年現在、国内57勝、海外7勝、国内シニア7勝、海外シニア9勝、海外グランドシニア3勝、通算83勝。
[編集] その他
- ライバル尾崎将司のニックネーム「ジャンボ尾崎」にちなんで、一時「コンコルド青木」というニックネームが使われていた時期もあったが、定着することは無かった。
- アメリカなどの英語圏では、「アイセイオー・エイオーキ」と発音されていたが、'80年の全米オープンでの活躍以後は「イサオ・アオキ」と、正しい発音で呼ばれるようになる。
- 米国レギュラーツアー時代は、長いパットを次々と放り込む姿や、難しいバンカーからの絶妙な寄せ技などから「東洋の魔術師」と呼ばれた。(USPGAのバンカーショット部門では、'80年、'81年と二年連続No,1の座に就いている。また、'80年代10年間の通算成績でも首位に輝いている)。パターのフェイスの前端部を立て、下端部で打つという、独特の打法である。
- 最近は「世界の青木」と呼ばれるようになっているが、これは好敵手・ジャック・ニクラスが「(アオキの)100Y以内の小技は世界一だ」と語ったことが由来とされている。
- 長年、青木功ジュニアクラブを主宰し、ジュニアの育成にも力を注いでいる。
- 近年は全英オープンの解説なども務めている。
- 気さくで開けっ広げな性格から、ゴルフ界以外の友人も多い。ビートたけしのことを「たけしさん」ではなく「ビートさん」と呼ぶ、数少ない人物でもある。一時期の口癖は「しゃんめえじゃんよ~」(仕方がない、の意)。
- グレグ・ノーマンと親友である。グレグ・ノーマンはゴルフ界でも変人で知られ、人見知りが激しく、ほとんど交友関係を持たないのだが、二人は本当に仲が良く、青木が世界ゴルフ殿堂入りした際には、そのプレゼンターを務めた。また、ゴルフ解説者の戸張捷が実際に見たといって語っていたところによると、二人は会話の際、青木は日本語で、グレグは英語で、普通に喋るのだそうだが、問題なく意思の疎通が出来るのだという。いわく、「僕の理解の外です」とのこと。